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ひっかかることば(2)「闇」

 その言葉が出てくると、多くの場合げんなりして先を読み進める気がなくなる言葉というのがある。僕の場合、「闇」がそういう言葉の筆頭である。
 なんか暗いのは判るが、それ以上のことは語ってくれないのが殆ど。その語が使われる時には、よくわからないおどろおどろしさに頼ってしまって、その実何も考えてないことが多いように思う。
 最近の新聞やニュースでよく見る「心の闇」なんて用法がその最たるものだ。一体何のことなのか、僕には全然判らないが、世の中ではなんだか通用しているので不思議である。僕に見えないものがみんなには見えているのか。そうなのかもしれないけれど。よく判らないが意味ありげで、何だか何か言ったような気持ちになってしまう、そういう言葉である。「心の闇」の場合、猟奇的な犯罪などと結びついて使われることが多い。「闇」という言葉のおどろおどろパワーによるところが大きいのだと思う。
 だいたい「闇」というのは何なのだろうか。僕などはごく素直に「漆黒の闇」「真っ暗闇」というのを思ってしまう。そういう人が多いだろう。街灯などのない田舎に行くと、何も見えないような真っ暗なところがある。そこには何がいるか判らない。何か起きたらどうしよう、という不安が引き起こされる。そういうところに広がっているものが、普通いう「闇」なのだろう。
 だが、「闇」の用法を考えてみると、必ずしも真っ暗闇だけが闇ではないことはすぐ判る。「木下闇」などというのは樹木下の暗がりの事であり、いわゆる真っ暗闇ではない。
 では物理的に光量が少ないことを言うのであろうか。それならば「暗がり」とほぼ同義ということになる。僕が勝手に考えるところによれば、どうもそうでもないようだ。光量ではなく、空間的な広がりが含意されているような気がする。
 暗いところに入ると眼があわてる。その奥になにかあるのか探ろうとする。この時、それまで無かった空間が、厚みをもって現前する。「光の少なさ」をきっかけに現れる、この「立ち上がりつつある容積」のことを「闇」と呼ぶのではないかと思うのだ。
 だから、闇の厚さ、奥行き、場合によっては物質的な重さ、硬さのようなものがそこに含意されている場合には、僕は抵抗感を抱くことなく読めてしまう。なるほど「闇だ」と感じるのである。辻征夫さんにも、そんな詩が確かにあったのだけれど、さっきひっくり返した詩集では見つけられなかった。他にはこんなのがある。

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夜の葦

伊東静雄


いちばん早い星が 空にかがやき出す刹那は どんなふうだらう
それを 誰れが どこで 見てゐるのだらう

とほい湿地のはうから 闇の中をとほつて 葦の葉ずれの音が
きこえてくる
そして いまわたしが仰ぎ見るのは揺れさだまつた星の宿りだ

最初の星がかがやき出す刹那を見守つてゐたひとは
いつのまにか地を覆うた 六月の闇の余りの深さに驚いて
あたりを透かし 見まはしたことだらう

そして その真暗な湿地の葦は その時 きつと人の耳へと
とほく鳴りはじめたのだ

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 「闇」の通俗的なおどろおどろしさは、暗くて何が潜んでいるか判らないようなところに起因するものと思うが、この詩においてはそういうものの予感は微塵もない。あるのは音が通過してくる距離として、隔てとしての「闇」である。一見すると、この詩で出てくる闇は、「真っ暗闇」のように思われるが、よく見ると違う。早い星が現れ、天に定まると同時に現出する闇であって、これは光の退出に伴って「立ち上がりつつある暗がり」に他ならない。このように、もののような厚み、隔てをもって現れるものが、僕にとっての闇である。
 「立ち上がりつつある」という性質から言えば、闇は永続するものではない。眼の慣れと同時にそれは消失していく性質のものである。また不安定なものでもある。新月の晩の森の中などでは、眼は少し慣れと闇の到来のせめぎ合いが起こるのだろう。怪異はそういう隙間に現れるのだと思う。「闇」は一見ひどく静謐な、固定したもののように見えるけれど、実は動きを孕んだものなのだ。見る者の眼の伸び縮みにあわせて変化する、われわれの視覚自身の影のような。その誘うような不安定さゆえに、僕たちは「闇」に惹かれるのではないかとも思う。
 闇そのものが濃くなったり薄くなったりするところを見たい。決まり文句として固定されてしまった「闇」は、もはや「闇」ではないのだと思う。




Last updated July 29, 2005 23:29:15
# by kotoba1e | 2005-07-29 23:29 | ことばと表現

ひっかかることば(1)「世界」

 最近よく使われるようになった言葉で、なんとなくひっかかるものがいくつかある。
 「世界」とか「世界観」とかいうのもその一つだ。これは別に新しい言葉でもなんでもないのだが、最近の使われ方に、あるひっかかりを感じているのだった。
 「世界の中心で愛をさけぶ」とか、「わたしこの人の世界観とかって好きなんですよねェ」とかというときの世界(観)。今まで使われてきた「世界(観)」と微妙な違いを感じるのだ。
 ある作家、作家でなくてもよくって、ある人が知覚し、その中にいると思う世界というもの。自然科学や地理学が記述する客観世界とは別の、「ある人にとっての世界」。こういう意味での、主観的な世界像というのは、詩人にとってはおなじみのものではあったし、これからもおなじみのものであり続けるだろう。

 ただ、あれ?、と思うのは、こうした「主観的な世界」という意味での「世界(観)」という言葉がポピュラーになった一方で、その言葉がもっていたある「唯一性」のようなものが失われていっているような雰囲気を感じるところだ。「世界」が棚にいくつも並んでいて、自由に選択できるような、そんな軽さが生まれ始めたような気がするのだ。

 客観として語られる世界は、始めからただ一つの真実として語られる。これ自体はあまり問題ではない(詩人にとってそれが真実かどうかもあまり問題ではない)。
 これまで、主観における「世界」として語られたものは、本来は、それ自体先んじてある、「どうしようもないもの」だったのではなかったか。動かし得ない、選択し得ない、かけがえのないもの。
 あるグループの人々によって共有して担われている世界イメージ=世界観(「○○族の世界観」とかと言った言い方をする時に典型的)、というのも近代的客観がもたらすものとは異なる、共同的な確信の体系であった。民俗誌を読む度に、かつてのその揺るぎなさのようなものに打たれる。「どうしようもないもの」の中を生きる人々の姿。

 「このゲーム、世界観いいよね」と言うように、マンガや小説、ゲームを語るときに、簡単に「世界」という言葉が使われるようになってきた。この「世界」は、これまでなんだか晦渋に語ってきた、主観に映ずる確信の体系としての「世界」とは似て非なるもののような気がする。
 むしろ、多数のパラメーター(環境変数)によって記述された、物語の初期設定のようなもの。さまざまな構成要素の属性に関する記述の集合のようなもの。そういうもののような気がするのだ。時代設定、主人公の性格設定、主人公のその時々の能力と関連するアイテム群、これらは物語の基底にあってその構造を支えるものだ。だからその枠内では「動かないもの」ではある。
 しかし、マンガやゲーム、大衆的な小説という形で供給され、僕達を教育する多くの物語は、代入される具体的なパラメータ値こそ異なるものの、用意されるパラメータ群(枠組みをきめるもの)はなんだか似たり寄ったりになっていて、それによっていくつもの物語が、相互に交換可能なところに並んでいるように見える。具体的には本屋やDVD売り場の棚などに。
 かくして僕達は、流通している、実は相互によく似た物語群を通じて、「世界ってこんなもの」というかなり平板な理解をするようになってきているように思うのだ。

 「環境設定」によって簡単に語られる「世界」というものが、町中に溢れかえるようになった。こうした、パラメータ群によって世界を再構成できるとする考えは、科学やその背景にある近代合理主義の「世界観」に、極めて近しいものだ。こういう「世界」がお気軽に出回るようになったのは、やはり僕達が、あらかじめ強いられた「世界」から自由になってしまった、ということなのだろうか。それは幸せなことなのか、どうか(このあたりは、戦後詩をどう考えるかというテーマとも関係してくると思うけれど、またの機会にそれは考えたい)。
 この再構成され、交換可能な形で流通している世界というものは、それはそれで世界であるから、無視できない強度を持つ。ゲームやインターネット、新宗教がもたらしてくれるそれに没入する人も現れる。その「世界」を確かに生きようとする人たち。同じ世界を生きようとする人が出会えば、そこにはコミュニティが生まれるだろう。その幻想的なコミュニティが、「よろしいもの」「うるはしいもの」であるかどうかはまったく判らない(カルトというものも、こうしたプロセスから生まれるものなのだろう)。

 それはおいておくとして、詩における「世界」は、こういう「パラメータで記述される世界」と一線を画すことができるのではないかと、僕は思っている。なぜなら、詩は「物語」的なもの、さらにはそれを貫き秩序を与えてしまう「時間軸」から、基本的に自由だから。
 物語の権力的な圧力に、人々が鬱陶しさを覚え始めたら、詩は抵抗の言葉として復活するのではないだろうか。だけど、そういう権力性を感じる能力も、キャラクターとパラメータの快適な攻撃によって、どんどん馴致され奪われていっているのを感じる。


(こういう考え方は、妄想的だと思います)
# by kotoba1e | 2005-07-20 11:38 | ことばと表現

六月の命

六月の命 「詩・絵本・小説で自由表現(6480)」
[ 詩とことばについて ]

 この間子どもが近所の田んぼでおたまじゃくしをつかまえてきた。プラスチックの小さな円筒形の水槽が、居間の床に置いてある。最初は大丈夫かなと思うくらい弱々しかったのが、数日でずいぶん大きくなった。蛍光灯の下で見ると、腹のあたりが銀色にぎらぎら光って、眼を圧するような強さがある。よく見ているとおたまじゃくしだけではなく、二枚貝のような姿をしたカイエビとか、小さなミジンコなど、眼を凝らせば凝らすほど、いろんな生き物が見えてくる。
 この一週間で虫も増えた。いつのまにか蚊が耳元に忍び寄ってくる。蚊取り線香が要る季節になった。大きな蠅の羽音もし始めた。
 湿度高く日の永い季節の命の明るさ。街の景色自体が、夕方になってもうすぼんやり光っているように見える。生命そのものの光なのか、ものの表面に一層に並んだ微細な水滴のせいなのか。忙しく草臥れ果てて、どんよりした身体を引きずって歩いている者にとっては、この明るさ、瑞々しさがしんどい。なんだか参ってしまう。こんな感じになって、初めてこの詩の気持ちが判った気がした。

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水中花           伊東静雄

水中花と言つて夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすいうすい削片を細く圧搾してつくつたものだ。そのまゝでは何の変哲もないのだが、一度水中に投ずればそれは赤青紫、色うつくしいさまざまの姿にひらいて、哀れに華やいでコップの水のなかなどに凝とすづまつてゐる。都会そだちの人のなかには瓦斯灯に照らしだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひともあるだらう。

今歳水無月のなどかくは美しき。
軒端を見れば息吹のごとく
萌えいでにける釣りしのぶ。
忍ぶべき昔はなくて
何をか吾の嘆きてあらむ。
六月の夜と昼のあはひに
万象のこれは自ら光る明るさの時刻。
遂ひ逢はざりし人の面影
一茎の葵の花の前に立て。
堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ、
わが水無月のなどかくはうつくしき。
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 今はこのほとんどすべてがそのまま判る気がする。こういう時刻がこの季節には確かにあって、そこではすべてが、外灯や車や行く人までもが、湿った精を吹きながらきらきらと生動しているのだ。それが見えてしまうと、つくりものの街のつくりものの私は、意味もなく責められているような心持ちになってしまう。対象のない焦燥が胸を圧する。投げ打ちたくなる。しかし何を? 僕自身が水中花でできているというのに。
 そういうつよさに無感覚だったときは楽だったのだ。このつよさをこっちにつける術も、たぶんあるはずなのだけれど。このつよさが見えるようになったということは、多少まともになってきたということなのか。何か命めいたものの感触を、詩に触れることで知ってきているのかも知れない。
# by kotoba1e | 2005-06-18 23:01 | ことばと表現

遠い終の棲家はどこにあるのか

 蕃さんの「詩人たちの島」でも取り上げられていた、「ミリオンダラー・ベイビー」を京都のMOVIXで見てきました。
 いろいろ読み解くのはやめて、目と口をあけて見ました。
 考える前に揺さぶられます。映画館を出てしばらくたっても、思い出したように涙が出てきて参りました。

 ラストのぼんやりした映像の向こうにはレモンパイがあったはずで、舌を残された者となったフランキーがここで味わうその味が、極度に清潔なこの映画に深い官能を与えていたような気がします。イエイツをゲール語で読むフランキー。tongueは自身のアイデンティティと他者の味の両者に関わるものなのかもしれません。

 遠い終の棲家はどこにあるのか。

 マギーも移民の出、フランキーも恐らくアイリッシュ系なのか。そしてフランキーは遠いInnisfreeを夢見る。生きている地点の、ある場所からの「遠さ」がこの映画の基調にあったような気がします。
 昨日は夜中の1時まで分水界の村にいました。月が明るく映る田のほとりで、僕自身が場所に関わろうとする意志、僕自身の根拠を、村の人たちはするどく突きつけてきました。故郷喪失者である僕にとって、イエイツのこの詩は、昨日の美しい村の夜景とどうしても重なってしまいました。この映画とこの詩が、折り重なるようにして僕自身の生の「遠さ」を問うてくるような気がしました。

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 蕃9073さんの「詩人たちの島」へのコメントを再編成したものです。
 イエイツの詩については、蕃さんの蕃さんの「Million Dollar Babyという尊厳」で紹介されていますので、そちらをご覧下さい。
# by kotoba1e | 2005-06-14 22:47 | もろもろ感想

公共空間と死

 今日はよく晴れた。昼間時間があいたので、一年坊主が学校から帰ってくるのを、交差点まで迎えに出た。青空を背景にして、子どもたちが歩道橋を渡ってくる。僕の姿をみとめた周ちゃんが手を振る。陽は高く、影は短い。暗さのかけらもない風景。
 だが、この歩道橋から落ちておそらく死んだ人がいることを、僕は知っている。しかし、不特定多数の人が行き交う公共空間では、そういう死は瞬く間になかった事になってしまうようだ。
 道で死ぬ人は多い。だが、それにより通行があきらめられる道はない。
 僕が乗っている電車が人を牽いてしまったことが何度かある。一つはほかでもない、阪神間を走る新快速電車だった。5年ほど前だったろうか。数の多寡はあれ、あの線路上にはこれまでも死はあった。だがそれは次の日にはなかったことになる種類の死だった。
 今度の尼崎の事故で現場となったマンションでは、補償を巡っていろいろと問題が起きているようだ。住民の人々はもうここには住んでいられないという。もっともだと思う。そしてここでの死の記憶は、この場所にまつわる記憶として引き継がれていくだろう。
 ここに、人が住まう場所と、道路や線路敷、河川敷といった公共空間の性格の違いが浮き彫りになる。公共空間とは、死を留めない空間なのだ。そこでは死は忘れられるべきものなのだ。
 公共で塗りつぶされた国があったとしたら、それはいたるところに死がありえ、しかもそれが不可視になっているような国であるに違いない。今の日本はどうだろうか。これからの日本はどうなるのだろうか。
# by kotoba1e | 2005-06-06 22:57 | まち・地域・場所