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ミッドナイトプレスの志

 ミッドナイトプレスの休刊に続き、池袋の「ぽえむぱろうる」が閉店だという。僕は関西にいるので、その店に行く機会はないのだけれど、そういう店があるということは、頼もしいことだと思っていた。なくなるということは、すごく寂しいことであると思う。

 「詩」を書く人は増えているのだという。「現代詩フォーラム」などを見ても、毎日毎日、とてつもない数の詩(?)が投稿されている。
 一方で、詩誌は全然売れないらしい。去年は「詩学」が一時休刊となり、その後は隔月ペースとなっているというし、今回はミッドナイトプレスが休刊だ。
 2月の「言鳴」のあと、窪ワタルさんから聞いたのだけれど、「詩学」に投稿している人の数の方が、「詩学」を買っている人よりも遥かに多いのだそうだ。要は、投稿し、入選し、掲載されることこそ、多くの書き手の関心事なのである。記事はどうでもよくなってしまっているのだ。おまけを目当てに買われる捨てられるチョコレートのようなものである。

 何故詩誌が読まれないのか。それは記事が読み手や書き手の関心からずれているということにつきる。しかし、記事のなにがどうずれているかは、少々難しい問題を含んでいるように思う。
 ひとつには、詩誌の記事自体が過剰にマニアックなもの、あるいは党派的なものになっていっているという可能性もある。「むずかしすぎるよ」という人がいる。「あれは閉じている」という人もいる。それが正しいかどうかは判らないが、専門化、高度化が進んだ詩や詩論は、生活の中にこそ詩があると考える人たちには、受け入れ難いものがあるだろう。特に現代詩手帖については、最もメジャーな総合詩誌でありながら(「だからこそ」かもしれないが)、「難しい」「選が偏っている」等の批判がなされることが多いようだ。ひとつひとつの批判の当否は別として、少なくとも、「現代詩」を包含するような広がりのなかで多様な詩を求める声に、応えることができていないのは事実だと思う。だがこうした問題は、編集側の問題意識によって対応できる問題だ。

 もうひとつの可能性は、もっと深刻なものだ。読者である書き手の方が、ことばへ尊敬や誠実な興味を失っているという可能性である。「詩というのは、素直な感情の発露であって、自己自身や社会について深く知ったり学んだりする事とのは無関係である。であるから、言葉に凝る必要などないのであり、方法論的な意識などというものは持つだけ無駄だ」、という考え方を持っている人が、今の書き手にはかなり多いように思われる。インターネット上で無差別に公開されるネット詩の過半は、おそらくそうした地点から書かれている。そういう水準のものが、ミッドナイトプレス「私の詩」掲示板でも散見されるようになった。
 要約すれば「馬鹿でもいい」という理屈である。そこで素直な感情のように語られるものは、どこかで聞いたようなものでしかなく、その人ならではものなど、そこにはない。そうしたものは、ことばを経ての反省によってしかもたらされないからだ。手前で思考停止してしまった人の言葉は、誰かが工場で生産した言葉に乗っ取られてしまう。そして、どこかで見たような、つくりものの自己像ばかりが、自己愛のオブラートにくるまれて、大量に吐き出されてくることになるのだ。
 そうした書き手は、先達や他者に学ぼうとはしない。だから詩論は読まない。少しでも理解に苦労する詩は読まない。簡単に理解でき、仮託できるものだけを、読むのである。
 そして他者による承認だけは欲しいから、投稿はする。その選者への共感とかは基本的にどうでもいいのである。採用してもらえさえすれば、「詩が掲載された」ことになり、そのことこそが重要だからである。

 そういう「詩」が、ネット上を埋め尽くしつつある。詩誌の投稿欄にも増えつつあるらしい。
 この増加は間違いなく一つの現象であり、言葉での表現への欲求を持つ層が増えていることの現れには間違いない。だが、こうした書き手が、他者の言葉に自分を開き、詩にまつわるさまざまなテキストを読むようにならない限り、書き手の数だけ詩誌が売れるという状況にはならないだろう。しかしこれは、ひとりひとりの内心のありように関わる問題であるから、対策を講じて云々という類のものではない。だから第一の問題より深刻なのである。

 論旨からずれるが付け加える。ここまで「バカ詩」について述べてきたが、「バカがバカな詩を書くのは当然である、優秀な書き手が優秀な作品を生み出し続けているのだからいいではないか」、というお芸術派からの反論が、もう聞こえているような気がする。そうではない。
 市民といっていいか大衆といっていいか判らないが、市井の人々の間に詩精神が共有されていることが、多分ものすごく重要なのだ。佳きことばのありよう、というものを皆が知っていること、あるいはそういうありように向けてこころが開かれているということ。そしてそういう人々の精神の上に詩が浮かべられるのでなければ、それはおそらく詩とはいえない。どの時代、どの文化においても、うたというものはそのように、人々の間にあって、人々を覚醒させたり慰めたりしてきたのではなかったか。ここに、詩の遍在性とでもいうべき一つの本質がある。
 この部分に注目せずに、エリートの内部に閉じこもるのなら、今も間違いなく進行している、人々からの詩精神の収奪に、間接的に加担することになるのだ。そして、メジャーな詩誌は、この失策を犯しているのだと思う。
 「『ポエム』書くイタいバカ」を差別的に笑うのはたやすい。本文中でもそうした層に対する非難ともとれることを書いた。しかし、そうした層がはっきりと眼に見える形で現れてきたのは、何かによって「言葉」が奪われつつあるからなのだと思う。それは先に書いたような「詩精神」とも言えるだろうし、「想像力」とも言えるだろう。自分で言葉を受け止めて、考えてみようとする余裕なのかもしれない。そういうものが、どんどん民衆の間から奪われて行って、プラスチック製のものや電気仕掛けのものに置換されつつある。これは、詩だけでなく、多分みんなの不幸なのだ。そして、詩に関わるものは、この流れに抗する言葉と、それを響きあわせる場を構想すべきなのだ。

 ミッドナイトプレスが、現代的でありながら現代詩を超える「詩」の広がりを見ようとしていたのは確かだ。それは一貫した態度として、誌面に表現されていたと思う。詩についての本質的な議論を、平易で親密な言葉で続けていたと思う。第一の問題、つまりメディア側の自閉性に対して極めて意識的だったのだ。
 第二の問題、つまり社会における詩精神の奪われに抗するのは、詩を読むものの内部でしか読まれないメディアには荷が重い仕事だ。社会全体の課題だからだ。でも、何らかのメディアを介してしか、そうした問題意識は共有されないし、その恢復への糸口を見つけられないものであるのもまた確かだ。他のところにも書いたけれど、ミッドナイトプレスは、ネットやその周辺に現れる大衆的な詩表現に対しては、スタンスを徐々に変化させてきたと思う。特に2005年度には、大きな変化があったように思う。それは一旦大衆的・インターネット的なものから退却して、詩そのものの広がりに戻ろうとする運動だったように見える。2006年の31以降は、そこからの再出発になるはずだったように思う。この先に何が構想されるべきか。

 ミッドナイトプレスを記念するアンソロジーを編んではどうかという議論も、同社の掲示板で見られる。それは結構なことだと思うが、ミッドナイトプレスが拓こうとしていたものを、深く訪ね、明らかにするような編集コンセプトを持ったものであってほしい。現代性と遍在性を同時に問おうとした、ミッドナイトプレスの志こそがその中で顧みられ、表現されるもの、常連投稿者による仲良し詩集を超えるものであってほしいと思う。
 ミッドナイトプレスの突然の切断は、その志のありかを、読み手、書き手に問うている。そのことについて、まず静かに考えたいと思った。
# by kotoba1e | 2006-03-15 11:25 | ことばと表現

さようならmidnight press

 詩誌midnight pressが休刊するらしいということを、石川和広さんのブログで知った。今はmidnight pressの掲示板にも、休刊を惜しむ声が続々と寄せられているようだ。

 現代詩を遠ざけてきた僕が、詩というものに気持ちを開くことができたのも、この雑誌との出会いがきっかけだった。現代とともにあり、しかも人々に対し開かれている言葉。間違いなく詩であり、かつマニアックな狭さを超えて行くもの。そういうものを誠実に追おうとした詩誌だったと思う。
 晴天の霹靂で驚いたり惜しんだりではあるが、この雑誌がどっちにいくのかな、ということは気になってはいた。2005年末の30号で一区切り、というようなことが、編集後記にもwebサイトにも載っていたからだ。

 以前から、midnight pressは詩の裾野に関心を持っていたようだ。川崎洋さん(今は松下育男さんが担当されている)と清水哲男さんの「詩の教室」の暖かさ、柔らかさも独特のものだったし、平居謙さんが若い市井の詩人を紹介して行く「ごきげんポエムに出会いたい」なんていうページもあった。
 また、CD-ROMといった新しいメディアの登場やインターネットの普及と、新しい詩の運動にも注目していたのだと思う。かつてはCD-ROM詩集なども出していたようだし、出版社のwebサイトの投稿掲示板「私の詩」を誌面に取り上げる、「poem on-line」というページも持っていた。いわゆるネット詩の特集を組んだり、有名サイトであるpoeniqueのいとうさんや現代詩フォーラムの片野晃司さんを招いた座談を収録したりもしていた。
 現代詩と、それと関わりうる多様な層とを視野に入れた編集を行っていたと思う。この開かれた感じ、「広さ」は、midnight pressの大きな特徴だったと思う。
 もう一つの大きな特徴は、「狭さ」だった。寄稿している詩人たちの息づかいが感じられるような、そういう親密な魅力があった。一流の詩人たちが、他誌より少し、身近に感じられるような、それは幻想なのかもしれないけれど、そんな感じがしたのだった。
 この「広さ」と「狭さ」が、midnight pressの他にない魅力を形作っていたように思える。

 だが、この1年半くらいの間に、その「広さ」を支えていたいろいろなものが変わったりなくなっていったりした。いつだったか忘れたけれど、midnight pressのwebサイトから、リンクページがなくなった。運営も大変だったのだと思うが、質の低い自ページへのリンクを一方的に請う人がいたりして、対処に困ったのではないかと、勝手に推測している。ネット上での相互的な関わりの困難さが露出し始めていたのだと思う。確か28〜29号あたりで、「ごきげんpoemに出会いたい」が終了、「poem on-line」が打ち切られた。このあたりで、mpはもしかしたら、「裾野」との関わりについて、仕切り直しを考えたのかもしれないと思った。そう思っていたときに、30号での一段落宣言があり、これからの大きな変化が予感されたのだった。

 2006年に入ってからのmpのサイト上では、「現代詩も、“ワン・オブ・詩”」、「2006年は、自由にーー」などといった、新しい展望を感じさせるタームが見られた。社会的な「裾野」とはまた違った、詩そのものの「広がり」「自由」の方に、きっと向かっていくのだな、と思った。
 しかし、31号を残して、midnight pressは休刊となった。たぶんその問いは、読者を含めmpに縁ある人々全員の宿題となったのだと思う。



 最後に個人的な思いを付け加えておくことにする。
 1年ちょっと前に詩らしきものを書き始めて、最初に発表したのがmidnight pressの「私の詩」だった。それから、そこにはできるたびに投稿し続けた。一度「poem on-line」で取り上げてもらえたこともあって、その時は嬉しかった。また、このサイトを通じて、ふくだわらまんじゅうろうさん、焼石二水さんを始めとする、さまざまな人たちとの交流が生まれ、いろんなことを学んだと思う。こうした場で遊ばせてもらったことについては、深く感謝したい。

 出版社としての活動とサイト運営は続けられるとのこと。気長に復刊を待ちたいと思います。ありがとう。お疲れさまでした。
# by kotoba1e | 2006-03-05 20:30 | ことばと表現

貧しさとしてのR&R 貧しさとしての谷川

 蕃さんのテキストと北川透「谷川俊太郎の世界」(思潮社)を読みながら、谷川俊太郎の「異様な貧しさ」について考えていた時、似たような貧しさをもつものとして、R&Rのことを思い出した。

 R&Rは貧しい音楽である。というと怒る人もいるかもしれない。黒人音楽の一連の流れの中で捉えられるR&Rは、豊かさそのものであるようにも見える。
 かつて、R&Rにおけるニューヨーク・スクールの一大巨頭であったE Street Bandの名サキソホン奏者、クラレンス・クレモンズ氏は、ロッキング・オン誌に掲載されたインタビューの中でこんなことを言っていた。「ロックンロールとリズム&ブルースとは本来異なるものではない。この区分はレコード会社と後世の歴史家によって捏造されたものである」と。
 それは判る。しかしそれでもなお、R&RとR&Bは異なるものだという確信が僕にはある。切断面がどこかにある。
 iPodにシャッフル再生させていて、Marvin Gayの直後にThe Beatlesがかかったとする。その落差には、だれも愕然とするはずだ。誰もが現代ロック音楽の豊かさそのものだと思おうとしているThe Beatlesの音楽が、いかに伸びを欠いた、身体の固いものであるか、密実さを欠いた、空虚なものであるかが、その瞬間に露見する。しかしこのことはThe Beatlesの名誉を傷つけるものでは全くない。この貧しさこそが、「何かを明らかにする」ものであることを僕らは直観的に知っているし、それが例えばThe Sex Pistolsや、今のThe Strokesの純粋R&Rに繋がっていく、R&Rの本質だということにも、直観的に気づいているからだ。

 リズムの伸びやかさ、バネといった生き生きとした融通無礙さを失ったら、音楽はファンクでもR&Bでもなくなってしまうだろう。しかし、こうしたものが失われるに従って、R&Rはエッジを立てて訴求してくる。またこうしたバイタリティに寄りかかっている音楽はR&Rを自称していてもは、退屈で守旧的なものに留まる。それは豊かな20世紀ポピュラー音楽の地層に抱かれた、退嬰的な歓びに過ぎない。しかし、そこから離れようとするとき、歴史と共同体の豊かさから分かれて、そのぎすぎすした姿をさらしはじめる時、R&Rの貧しい尊さが顕われるように思う。生の躍動から一度離れること、一旦音楽の死に触れることが、R&Rの要件なのだ。優れたR&Rが常に痛々しいのは、必然なのである。

 R&Rはつめたい容器である。そして優れたR&R音楽家は、その0度を知っている。その瀕死の貧しさが、そこに満たされる生き生きとしたものを一層賦活するのだ。一度死んだR&Rに黒人音楽が再度結合される時、The Rolling Stonesの熱狂が生まれる。伝統のなかに埋もれているものが、R&Rの貧しさによって改めて見いだされ、大衆に気前よく振る舞われる。これはR&Bの伝統の内部からは生まれ得ないものなのだ。

 「語るべき内実」を持たないが故に、その形式が露出せざるを得ない。同時に、その形式がさまざまなもののユニークさ、豊かさを顕在化させる。白人が発明したR&Rとはそういうものだったと思う。

 何でこんなことを考えたかと言えば、谷川詩の貧しさというのも、そういう構造をもつもののように思われたからなのだ。谷川の詩は一見したところひとくくりにはできない多様さをもつ。しかし、どれもある一定のつめたさを持っている。言葉少なな「タラマイカ偽書残闕」にしても、言葉が横溢している「(何処)」にしても、初期の「二十億光年の孤独」にしても同様のつめたさがある。
 谷川は、「語るべきものを持たない」人であるのに違いない。個人の経験だとか、思想とか、根拠とか、感受性とか、暴力とか、反秩序だとかといったことについて、呑みながら熱っぽく語り続けるような、そういうハッピーさとは全く関係がないように見える。「語るべきものを持たない」人が、それでもなお何かを言おうとするとき、多分その人の生の形式がそのまま露呈せざるを得ないのだ。谷川の詩には、そういう谷川の認識の構造、生の構造がそのまま刻印されている。表層的な多様性の下にあるのは、喩のひだひだや装われた豊かさを一切失った、「一つの眼」としての形式である。ここに、喩を反響させあうことで「何かを語ろう」としてきた現代詩との大きな離隔が生まれている。これはテーマの問題というよりは、むしろ主体の構造の問題というべきものだ。またここに、喩を反響させあわせないことによる一義性があり、それは谷川詩のポピュラリティとも結びついているのだ。

 谷川は無限遠に設置された単眼なのだ。ここでは二眼による測距は意味をなさない。この視野のなかでは、性も事物も言語も同じ地平にあるものとして掴み直される。その視線のありようが、驚きとともにわれわれをうつ。
 多分誰もが言っていることだと思うが、谷川の眼は二十億光年先の死の暗がりに据え付けられているのだ。そしてそれはR&Rが常に瀕死であることと、現代のなかで重なりあっているように、僕には見えるのだった。
# by kotoba1e | 2006-02-21 13:47 | ことばと表現

The Blue Stones

 蕃さん(水島英己さん)の「The Blue Stones」(樹が陣営22号,2001)で言及されていた同じタイトルの詩が収録されている、Raymond Carverの作品集「Fires」を入手した。早速「The Blue Stones」から読んでいる。
 蕃さんの作品において、冒頭の福間健二からとられたエピグラフ
「青い色が泣いている/灰色がかった青でも/青は青であるといいたいのだ」
がその基調を決してしまっているようにも見えるが、このCarverの作品においても、フローベールからの
「If I call stones blue it is because /blue is the precise word, believe me」
が全てを語っているように見える。
 この作品で「きみ」と呼びかけられているのは、普通に読めばボヴァリー夫人のラヴ・シーンを書きながら自慰にふけるフローベールである。「これは愛とはまったく関係がない」
 愛とは関係なく、性そのものを書こうしたフローベールが、ゴンクールと夜の浜辺を歩いたときに拾い上げた、月明かりに照らされた青い石は、翌朝もなお青いのだった。このあたりの潮がわたる夜の浜の石をめぐるイメージは美しい。
 この作品での青は変わらない青であり、フローベールの本質を看取する目や筆法と結びつけられているような印象を受ける。
 蕃さんの「The Blue Stones」ではむしろ、福間のエピグラフにも見えるように、そこからの揺らぎとそこに留まろうとする思いとのせめぎ合いが主題化されているようだ。そして青には「自ら光りながら、物と事をつらぬく無垢」、青春性が含意されている。
 自慰のモチーフ、「信じてください」の起源、「友人」など、Carverの方を読んで発見できたことがたくさんある。これを読んだ事で、また新しい読みが生まれそうである。

 蕃さんのこの詩は、福間健二とも、カーヴァーとも、フローベールとも、伊藤静雄とも繋がっている。そしてそれぞれのテキストへの経路は、一律ではなく多様な方法が企まれている。
 福間に対してはエピグラフで、カーヴァーに対してはタイトルの共有と、詩の中でのトートロジカルな言及によって、フローベールに対してはカーヴァー経由で、伊東静雄に対しては断片化された引用によって。このことによって、この作品は、外部のテキストに対して開かれた風通しの良いものになっていると思う。
 今並行して、村野四郎や石原吉郎を読んでいるが、これらの作品には、作品はいかなるコンテクストにも依拠せずに、自律して存在しうるべきだ、という強固なコンセプトを感じる。堅固だが、ある種の読み疲れも感じる。この自律性に立ち、共同的なコードを拒否する性質は、絵画から建築、文学などジャンルを貫くモダニズムの特徴といえるものだ。ここには、外部のテキストと関わりながら存在する、というあり方はありえなかった。
 蕃さん版「The Blue Stones」に見る、テキスト同士がネットワークを作り、それぞれの間で意味が乱反射しあうようなイメージというのは、やはり多分にポストモダン的なものなのだと思う。
 引用も一律で固いものになってしまうと、単に衒学的になったり、読者を遠ざけたりという悪弊が生じるが、うまく活かせば読者をより広い場所へ連れて行ってくれる。
 石原吉郎を読んでいるときに、辻征夫さんの詩で見慣れていた「アレクサンドル・セルゲーエウィチ」の名の行が出てきてぎょっとした。この新鮮さも、辻さんの詩が開いてくれた経路が導いた出会いだったのだと思う。
# by kotoba1e | 2006-02-07 09:37 | ことばと表現

池水慶一さんの講演を聴いた

 今日は勤務先の京都造形芸術大学で、旧知のアーティスト池水慶一さんの講演があったので行ってきた。先日、これまでの活動をまとめた「IKEMIZU! 1964-2004」という大部の資料集を送って下さった。1964は僕の生まれた年(年齢ばれるなあ)なので、ちょうど僕のこれまでの生と重なっている。
 この人は40年以上のあいだ、大規模な「悪戯」とでもいうべき作品を手がけてきた。とらえどころもなく大きかったり、それでいてどこか可笑しかったりする、そんな作品だ。その活動が、メディアで大々的に取り上げられたり、そうしたことを通じて一般の市民が大量に押し掛けるというようなこともなかった。ただ、それらのアートは居合わせた人、関わった人(僕もそうだった)には確実にかけがえのない経験となり、伝説となっていった。
 企業スポンサーもつけず、中学校の美術教員を30年以上にわたって続けながら(その後大学に籍を得た)、仲間たちと共に自分自身で調達できるものだけを使って、次々に新しい表現に挑んでいったその生き方には、考えさせられる。

 今の若いアーティストは、売れなくてはいけない、と思っている。それが正しいのだと。そうでなくても、パブリックに対して開かれた表現でなくてはならない、と思い込んでいる。そして、それをきちんと説明できなくてはいけないのだと。現実社会に生きるアーティストとして。
 これはあるところまでたぶん正しいのだけれど、そう思い込んでいくうちに、確実にスポイルされるものはある。

 現代詩フォーラムなどを覗くと、「なぜ詩は売れないか」とか「詩がメジャーになるためには」とか、そんな議論があるようだ。どうもそこに集っている詩を書く人たちは、表現する人はその表現で食えて当然だという意識があるのだろう。多分彼らの念頭には、「(売れる)小説家」「漫画家」「(ポピュラー音楽の)ミュージシャン」といった存在があるのだろう。注文がきて、それで仕事ができる。本も出版社がお金を出して出版してくれる。忙しいながらも多くの仕事をこなし、充実した日々。そして多額の収入。そういうアーティスト像があるのだと思う。
 しかし、他の分野を見れば、そんなのはごく限られた範囲の出来事に過ぎないことはすぐに判る。収入のための定職を持ちながら、諦めずに自分の表現をこつこつと行っている人たちだどれだけいることか。現代美術の作家だって、大半がそうだ。学校の先生をしたり、肉体労働をしたりしながら、自分の金を使って自身の表現を続けている人たちがいるのだ。「諦めずに」というのは、ビッグになるのを諦めない、ということではなく、表現を諦めない、ということだ。池水さんはまさにそうやってきた人の一人なのだ。思いついたらやっていた。やりたいことをやってきた。四十年の凄まじい自由。
 「勝ち組」思想に固まっている人は、こういうのを馬鹿にするのだろう。文章や詩を書く人の中にも、そういう人は増えているのかもしれない。しかし、当人にやむにやまれぬ、生と直結したものとして表現があるのであれば、こうしていくしかないではないか。そして現に多くの詩人はそうしているのだと思う。それを見て「みじめだ」とか「びんぼうくさい」とか「売れなきゃ意味ない」とか言うのは、違うだろう。だったらやめなさい。

 「言鳴」の後の飲み会でも話題になったのだけれど、どの投稿サイトも、大量の所謂「ぽえむ?」(あえて「ポエム」「poem」とはいわない)で埋め尽くされるようになってきたという。それは、一旦自分で受け止め、考えることを通しての表現ではなく、「あるある」といった性急な「うなづき合い」のための言葉なのだ。自身を経由せずに浅く繋がっていこうとする言葉は、一般論の姿をとる。そしてそういう浅薄な一般論を大量に売ろうとする奴が、「マーケティングで詩を書くべきだ」なんてことを言い出すのだろう。そういう人は、一体どういうところに立っているのか。今は、もうそんなことも判らなくなってきているのだ。
 政治についても、いきなり大所高所から語ってしまう。貧乏人のくせに(失礼!)「努力したものが報われる競争性のある世の中が正しい!」なんて言ったりする。自分がどこにいるか、もう判らない。自己は一般性の中に溶けてなくなってしまっているのだ。こういう溶けた人たちの上に、小泉政権は浮かんでいるのだろう。横道にそれたか。今日はそれっぱなしだ。
 まあいいや。こういうどこか遠くからの一般論の視点、誰に取っても他人事であるようなものに乗っ取られてしまった自己というものが、都市のいたるところに顔を出している。彼らは、彼らの定型からはみ出す表現は、奇形的なもの、反社会的なものだと考える。「意味の判らない詩なんて」などと言う。「売れないものは意味がない」「客の入らない展覧会は税金のムダ」と言う。そして安全・安心な表現をメディアの中に求めていく。若い書き手がそっちに流れていくんだとしたら、ちょっと待てよ、と言いたいのだ。

 地道に表現を続ける、言うのは簡単だが、池水さんくらいの規模の表現になるとそれは容易ではない。でもそうしてきた人の姿と言葉に触れると、「勝ち組」に仮託することで何とか自分を保とうする卑しさ(自分の中にだってある)と戦いたい気持ちになる。
 池水さんのアートは、どちらかといえばぶっきらぼうな、即物的なものだ。人生についてそれらしく語ったり、癒しっぽかったりするようなものとは全く無縁だし、当人の話もそういう生き方論のようなものでは全然ないのだが、それでもこれだけ一貫していると、いやでも表現と生きることについて考えさせられるのだった。


写真は池水慶一さんのHPより引用しました
池水慶一さんの講演を聴いた_b0139835_074691.jpg

# by kotoba1e | 2006-01-19 00:21 | ことばと表現