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自ずから然るということ

 二年ぶりくらいに部屋の大掃除をした。どこに何があるかではなくて、どこに何が生えているかわからないというような状態になりつつあったので、家人からの苦情に屈し、さすがに片づけざるを得なくなった。
 机はすでに机の用をなさない。というか、どこに机があるのか判りにくいようなありさまであった。机の上に物がうずたかくフルヘッヘンドしているのと同じくらいに、床からも諸物が伸び上がっているからである。床に積まれるのは、始めのうちは雑誌や本である。こういう物体は平面性に秀でているので、床の上に放り出しても、それなりに確かな収まりかたをしてしまうので、この時点ではあまり乱雑な感じはしない。だが気づくと—これは本当にいつのまにかとしか言いようがないのだがーなんだかよくわからない塊が部屋を覆っているということになっているのである。
 始めは平らに積まれていた物が、次第に文具や楽器、種々の包み紙や菓子の残りのようなものを挟み込むようになり、当然その建築の安定性は損なわれてだんだんと傾いていく。その一方で別の所では小さいものの上に大きなものが載せられ、これもまた危なっかしいことになっている。こういったもの同士が、相互に支えあう場合もあるが、それは幸運な偶然が働いた場合に限られ、將棋倒しという道を辿ることもまた多いのである。
 こうなると、部屋の主としてはもうどうかしようと言う意志を失ってしまう。それらの塊を除去する、または直立させるということが要求する時間と労力を想像するだけで、胸は塞がってしまう。なにも今しなくてもいいではないか、と思うのだが、そう思ったときには、また堆積が始まっているのであった。残骸の上に新たに物が積もりだし、いつしか複雑な地層が形成されることになるのである。
 こういうことであるから、僕は片づけられない人間として、家でも職場でも常に批判されてきた。
 しかし断じて言うが、僕は散らかそう、汚くしようという意志をもって部屋を汚してきたことは、これまで一度だってなかったのである。その時その時のやるべきことは、それなりにやってきたつもりである。例えば本を読み、学んだ。ただ、それを書棚に返すことができなかっただけだ。そしてこれは、読書そのものとはまったく関係ないことである。
 部屋の堆積と成長は、僕の意志の外側で起きていたのである。森において樹木が成長するように、鼻孔において鼻糞が成長するように、知らないうちに、部屋は成長して一定の形を持つに至った。これは、僕の力の及ぶ外側でのできごとであった。むしろ自然現象だったのではないかと思うのである。
 そしてさらにいえば、「自然」とはこのような、操作を断念された、不作為の領域のことをも、もともと含んでいたのではないかと思うのだ。

 いきなり話は飛ぶけれども、近年里山ボランティアというのが盛んだ。一九六〇年代の燃料革命によって経済価値を失ってしまった薪炭林が、放置によって荒れてきているという。それを市民の手によって、「生態学的に良好な状態に維持管理」しよう、というのである。
 僕が不思議に思うのは、こうした活動の中で「かつての里山は生態学的に理想的な管理をされていた」というような言葉が聞かれることだ。炭や薪にするために木を切っていたことが、森の環境を良くしていた、というのだ。
 たぶんそのこと自体は、確かなのだろう。疑問に思うのは、そういう伐採が、「管理」するぞという意識のもとで行われてきたのかどうかということだ。現在里山ボランティアたちがそこの環境を守る上では、木を伐ることは、「管理」に他ならないが、かつての里人が山に柴刈りに行くというとき、それはあくまでも柴刈りであって、「管理」ではなかったのではないか。この二つは、客観的にはまったく同じ行為であることもあるのだろうが、その「刈る人」にとっては、まったく違う意味を持っているように思う。そして彼らに捉えられている「自然」もまったく違ったものなのだと思う。
 もちろん、昔の里人だって、木を伐り倒し森を明るくすることが、どんなことをもたらすかは(今日の生態学者やボランティア以上に)知っていたはずだけれど、そこから森がどう蠢いていくかは、彼の作為の外だったのではないかと思うのだ。
 伐られた森は、伐られたことを一つの契機としながら、それはそれとして独自の生を生きていく。そして人はその傍らをまた生きていく。その交渉は、「管理」とか「意志」とか「支配」といった世知辛いものでは、多分なかった。そこには肉親あるいは己の半身のような親しさがあり、疎遠になったときには、そうした近しさ故の容赦のなさがあったのだろう(戦後の開発による風景の破壊の背景には、そんなDV的な残酷さがあるように思う。)

 「支配」や「管理」の対象として直視しないこと。その自由な運動を横目で許すことで、里山は命に満ちたものとなる。それは、里山が「多様な『生物』を住まわせているから」では多分ない。そのような、自由な運動を横目で許す態度そのものが、そこに生命を呼び寄せるのだ。何者かが「生命」をもってそこに顕れる、ということと、それが生物であるということは、いつも同一視されてしまうけれど、おそらく違う問題なのだ。
 これはおかしな考え方だろうか。でも、「支配」と「管理」の視線を向けられた人は、そこでは既に生きた人間ではない(この視線は今や誰もに注がれているけれども)し、一方「神」というのは常に、さっき述べたような仕方で「生命」あるものとされてきたのではなかったか。神はいつだって、人間が直視したり支配したりできない者だった。もしかしたら、神とは僕たち自身の不作為の集合体なのかもしれない。
 整理整頓は、その空間の隅々まで視線で射抜き、管理しようとする意志の現れだ。支配すること、すべてのものの管理が可能であると考えること、そういう視線で世界を眺め渡すことに、たぶん僕たちは慣れすぎたのだ。この視線はメデューサの視線で、眺め渡された世界は冷たく凍り付いてしまう。言葉は世界に触れることなく、管理下でのトートロジーが増殖し始める。今世に溢れている、既視感を伴う言葉たちは、こういうものなのだろう。

 そういう訳で、僕の部屋には神がいる。大切なものを不意に隠したり、思わぬ時に顕現させたりして、僕を畏れさせる。大掃除の直後の今は、刈られた山のように明るいが、またいずれ暗く潤った森へと育ってしまうのだろう。
 話が大きくなってしまった。片付けられない言い訳は、もうこの辺にしておこうと思うが、整理と計画に追いまくられるのも確かに窮屈なことだ。いいかげんであることは犯罪であるかのように言い募られる世の中だけれど、ちゃんとしすぎると見えなくなるものも、多分あると思うのである。


初出:tab第2号(2007年1月発行)
by kotoba1e | 2007-03-14 09:41 | 自然と景色
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