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校長たちの自殺

 例の未履修問題で、高校の校長の自殺が相次いでいるという。痛ましいことだ。
 しかしこれはとんでもないことでもある。死者にむち打つようなことは言いたくないけれど、自分の死によって、(とれもしない)責任を取ってみせるようなポーズをする、というのは極めてネガティブな教育ではないだろうか。この死が、生徒たちの胸に何を残すのか。教育者として考えてみたのだろうか。これは責任ある行動どころか、無責任を通り越して、犯罪的な教育をなしたと言えるのではないだろうか。自殺した校長は、未履修の責任よりも、自殺したことによって責められなくてはならないと思う。

 自殺がこれほど一般的になってくると、問題解決の一般的手段として世の中に認識されるようになってきてしまいはしないか。「責任をとって死ね!」というようなことが、平気で言われるような、そして責任があるとされる立場にいる人が、普通に死を選ばざるを得ないような世の中が、もうそこまで来ているのではないかと思わされる。
 既に消費者金融においては、最終的には自殺させて生命保険金で回収するというビジネスモデルが確立している、というか、そういうシステムでビジネスが成り立っているらしいが(須田慎一郎「下流喰いー消費者金融の実態」ちくま新書)。

 まあ、昔だって「死んじまえ!」というような罵詈雑言は普通に交わされていたと思う。それで死ぬということもあまりなかったように思うし、それで死んでしまうようなら、それはそれで仕方がなかったのかもしれない。まあ「死んでおわび」の伝統もあるのだろうけど、きちんとした組織責任の在処が追求される世の中であれば、個人がそこで無為に犠牲になることもない、というのが戦後的な救いだったようにも思う。

 ところが、今のこのヒステリックに責任の所在をむりやりにでもつくりだす社会では、「死ね!」は正義を装うところから発されるように聴こえるのだろう。今は組織が「死ね!」という。あるいは見えない集団が「死ね!」という。声にならない声をその体内に充満させるのだろう。組織は責任の所在を本当の意味で明確にするものではなくなって、末端を切り落として生き永らえるものになった。

 校長たちの自殺は、こうした世の中の間違ったありようを、抗いようのないものとして生徒たちに印象づけてしまったのではないか。それは教育者として最も忌むべきことだったのではないかと思うのである。「ほらね、こういうときには死んでおわびするんだよ。社会というのはそういうものなんだよ。私が身をもって手本を示してあげるから、みんなも真似をするように。」馬鹿みたいな話だが、死には有無を言わせぬ説得力がある。だからやっかいなのだ。

 今度の未履修問題が、世の一般的な風潮(暗黙も命令者がいたと思ってもいい)であるにも関わらず、学校単位の自由意志によって選択されたかのように見えるところがポイントだ。責任者は校長ということになるのである。問題はそこから上(教委や文部科学省)には行かない。
 明瞭な強制ではなく、暗黙の強制があるところで、自由な選択を装ってその行為を選択する場面というのは、危険なのである。まったく同形の問題が、地域づくり等における「住民参加」、「NPO参加」にも見られる。市民の「自由な参加」を装った「動員」がされはじめている。何かあったときには、そういうグループの長が死に追い込まれることになるかもしれない。そういう災禍をもたらすような大問題は今のところ表面化してはいないけれど、構造としてはそうなってきていると思う。BC級戦犯の死も、そういうところにあったのではないか。

 そして、安倍的なものは、そういう犠牲のもとで、のうのうと生き永らえてきたものなのだと思うのである。
by kotoba1e | 2006-11-07 01:58 | もろもろ感想
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