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まぜまぜ秋サロン私的報告

去る9月29日(木)、ひとまち交流館2階第1会議室にて、まぜまぜ秋サロン「天若湖アートプロジェクト2011&韓国川の日大会に参加して」が開催された。発表者はさとうひさゑ実行委員長と私。それぞれアートプロジェクトとしての観点からと、水環境関係の市民活動としての観点からの発表を行った。もともとのことの起こりが、さとうさん率いるアートNPO「アート・プランまぜまぜ」と、私が事務局を勤めていた流域環境団体「桂川流域ネットワーク」の協働として始まったということもあるので、この分担はごく当然のものである。
 広報もあまりできず、参加者も多いとは言えない会だったが、気付かされることも多く充実した会となったので、備忘録代わりにここに感想を残しておく。さとうさんのプレゼンテーションについては、私の言葉で書いてしまっているところが多く、ご本人の発表とは大きく異なるものであること、文責は私にあることを申し添えておく。

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 さとう実行委員長のプレゼンテーションは、基本的には7月10日の講演をより詰めたもの。現実行委員長の思いや考えていることが、明確に提示されたものだった。

 これまで7年間にわたって開催され、そしてこれからも実施されていくだろうこのプロジェクト、特に中心となるインスタレーション「あかりがつなぐ記憶」は、地域の風景の中に潜在しているものを、美しい形で提示して見せ、多様な問いを上流下流からの観覧者に与えている。この働きはアートのものに違いないが、そこに作家の名前はない。人々によって継続的に運営されてきたのである。この「作家なしのアート」は、ふつうのアートを見慣れている人にとっては、わかりにくいところのようである。

 通常の地域系アートプロジェクトが、比較的狭い地域社会(「地元」と言われることが多い)と、外部からの「アーティスト」との関係で捉えられることが多いのに対して、(1)天若湖アートプロジェクトでは最も関わりの深い地域が既に「水没」しており、風景としてもコミュニティとしても現存しない。(2)現存する周辺地域は水没地域に対しては一種微妙な感情を持っており、外部からのそこへの関心に対しては、ストレートな反応は示さない。ふつう地元といえばこのあたりということになるが、天若湖をテーマとし続ける限り、そことの関係づくりは難しい。(3)多くの実行委員も含む、流域という広がり、そこに暮らす市民たち。彼らも桂川とその開発の影響を被る、具体的な関わりをもつ当事者であって、抽象的・一般的な市民ではない。この三層の地域性が、流域プロジェクトとしての天若湖アートプロジェクトにはあるのだということ。そしてアートはこの三層の間で起こるのであり、特定の「アーティスト」によって持ち込まれるのではない。
 さらにさとうさんが言ったのは、この(2)までの、比較的小さな「地元」との関わりの中で行われるアートが「コミュニティ・アート」なのだということ。そして(3)の広がりの中でのコミュニケーションの中でのアートを構想した時、それは「パブリック・アート」なのだということ。ここには、パブリック・アートという言葉の再定義が含まれていると感じ、少しどきっとした。

 プレゼンテーションのもう一つのポイントは、アートから文化へということであったろう。この話題の中では、文化とは人々に「自然」であると受け止められているもの、共同体によって自明なこととして共有されているものとされていたように思う。そしてアートはむしろ人間がその機知によって創り出す「不自然」なものということだった。
 そして、後者の「近代的なアート」から、新しい形での「地域文化」お祭りのようなもの、に変容していったらいいという夢が語られた。これは、個の表現を救い際立たせていこうとする今のふつうのアートの考えの対極にあるものだ。
 ここからは私の考えだが、このことは天若湖アートプロジェクトが、「地元」に立脚した共同体的なものに閉じていくというのとは少し違うのだろう。「地元」との関わりやその巻き込みについては、長年にわたり実行委員会内でもさまざまな議論があった。しかし「流域」という具体的な広がりと関わりが見えてきた今、流域文化としてそれを構想することができるのではないかと考えている。下流の市民がその担い手のうちの多くを占めていたとしても、それはこのプロジェクトの地域(流域)に即したありようを否定するものではないのだ。
 顔のない一般的な市民だけでもなく、共同体に帰属する地元住民だけでもなく、その中間にあるダイナミックなレベルを構想しようとしているのだ。

 特定の作家の名義に帰属しないアートであるが故に、新たなレベルの地域文化化の可能性がある。このアイディアの中にはこれまでの地域系アートプロジェクトがやってきたことを踏み越えるものが含まれているように思われた。

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 私の発表は、日本における河川や水資源に関する市民運動史の中で、天若湖アートプロジェクトを位置づけようとするものだった。
 1985年から開催されている水郷水都全国会議は、前年の琵琶湖での世界湖沼会議での議論から生まれたもの。河川開発を行う行政と住民との間には深刻な対立しかなかった時代に、各地の住民が連携することの必要性から発足したが、その後諸分野の専門家や行政の担当者も交えたものになっていく。水郷水都全国会議20周年記念資料集「ふるさとづくり提言の時代」によれば、その後の20年は「対立から提言へ」だったという。1985年という年は、私の記憶が正しければ、宮崎駿制作・高畑勲監督による『柳川堀割物語』が公開された年だったと思う。この映画の主人公は柳川という街そのものだが、その危機を救った人として、市の職員だった広松伝さんが大きくフィーチャーされている。その生き方に触発された公務員も多く生まれたときく。
 そうした行政、専門家、住民といったさまざまな人々が集い議論する具体的な場として作られたのが、全国水環境交流会(1993〜)である。各セクターの背景を持った人々が、個人として率直に議論できる場とされ、そのために守るべき議論のルール(※)が定められた。住民意見の反映規程が定められた1997年の改正河川法も、こうした多セクター間の交流と議論がなければあり得なかったろう。背景としては、1990年代になってドイツやスイスから伝えられた多自然型、近自然型と呼ばれる河川環境復元の技術が一般化していったこと(当時の建設省からも1991年に「多自然型川づくり」についての通達が出ている)。また河川断面や護岸構造だけでなく、上下流一貫したアプローチの必要性が強調され出す。利水、治水、環境の各側面で、上下流の利害が一致しないことが多いからである。ここで流域連携、流域ネットワークということが課題になってきていたのだった。
 こうしたセクター間、上下流間のコミュニケーション形成の動きは、さらに行政によるものだけでなく、市民主体の川づくり活動を紹介しその見識やノウハウを交換する「川の日ワークショップ(現・いい川・いい川づくりワークショップ)」(1998〜)につながっていく。

 この全国水環境交流会で採用されている議論のルール(原典は「みずとみどり研究会」によるものとされる)は、次のようなものだ。

3つの原則

(1)自由な発言
(2)徹底した論議
(3)合意の形成

7つのルール

(1)参加者は自由な一市民として発言する
(2)参加者個人の見解は所属団体の公式見解としない
(3)特定個人・団体のつるしあげは行わない
(4)議論はフェアプレイの精神で行う
(5)議論を進めるに当たっては、実証的なデータを尊重する
(6)問題の所在を明確にした上で、合意をめざす
(7)現在係争中の問題は、客観的な立場で事例として扱う



7つのルールの前半は、対立から合意をつくりだすための、議論を成立させるための工夫がしのばれるところだ。後半では議論が基づくべき「客観性」が強調されている。このルールをその場において共有し守ることで、さまざまな合意が形成されてきた(一方その場は個人の資格による発言の場であるからそこでの合意は公式のものとはなり得ないという限界もある)。
 この「3つの原則/7つのルール」については、大きく二つ思うところがある。一つはこのルールの可能性である。これは、さまざななセクターの人々(地元住民、市民団体、専門家、行政etc…)が関わるような問題であれば、河川環境の問題に関わらず議論の場において援用することができるだろう。たとえば森づくり、都市における景観づくりなどはもちろんだが、地域や社会とアートの関係づけるような場面だとか、原子力発電を巡る議論などにおいても活かしうるのではないか。
 もう一つはその限界性である。地域において育まれてきた生活文化がその主題に関わってくる時、議論の中に客観化できないものが重要なものとして入り込んでくる。実は河川環境問題において上流域の暮らしと自然、それらが織りなす文化の問題は、本質的に重要である。それは地元の人々の共同主観と結びついている。科学技術の進歩を支えてきた客観主義に対する反省という部分もあるのだろう。そうした主観的に把握された環境文化を尊重すべきだという議論もなされるようになってきた。その時に客観的なデータだけが、諸セクター間の連携のベースとなりうるものなのかと言えばそうではないだろう。ここにさまざまなアーツが活きる場面があるように思うのである。天若湖アートプロジェクトは、そのひとつの先駆けなのではないかと思うのである。

 「対立から提言へ」という言葉があった、その後はさらに「参加」「協働」(京都市的には「共汗」?)という、行政と市民・住民の蜜月の時代があったような気がする。
 しかし、淀川水系流域委員会の頓挫や、最近の原子力発電を巡るさまざまな言葉の行方を見ていると、剥き出しの利権とそれに対する闘争のことばだけが残ってしまったように思う。合意形成はあり得ないことなのだろうか。共感形成というのはごまかしなのだろうか。しかし、潰すべきものは潰すべきであるにしても、そこからしかスタートできないものがあるのは間違いない。こういう場面で、先の「3つの原則/7つのルール」やそれを拡張したアートによるコミュンケーションは、なおリアリティを持ちうるのではないか。

 というようなことを話した。

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 さとうさんは社会的なアートマネジメントの観点から、天若湖アートプロジェクトが何かを踏み越えていく場面を語り、私は市民運動論の方から、やはりこのプロジェクトが踏み越えていこうとするところを語ったのかもしれない、これはもしかしたら、よくわからないけど、何か表裏一体のものなのかのしれないな、といったことを打ち上げの席で話したのを覚えている。
 他に思ったこともあるが、それについてはまた改めて書きたい。
by kotoba1e | 2011-10-07 01:19 | N・P・O
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