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黒田大忘年会

2010年12月27日(月)、京都市右京区京北宮で開催された「黒田大忘年会」に、瓜生山オーバートーン・アンサンブルとして参加しました。地元の「黒田大正琴同好会」「黒田バンド」に混じって演奏の機会をいただきました。瓜生山オーバートーン・アンサンブルのハイライトをご紹介します。

口琴ソロ
口琴カルテット
ホーメイソロ
ホーメイデュオ
三線遊び
ライヤーアンサンブル

中塚智子(口琴、ライヤー、エレクトロニクス)、荒川浩介(口琴、ホーメイ、パーカッション)、さとうひさゑ(口琴、お鈴)、下村泰史(口琴、ホーメイ、タンプーラ、三線)
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by kotoba1e | 2010-12-28 17:09 | 喉歌入門記

ふくだわらまんじゅうろうさんの句がこんなところに・・・

 ふくだわらまんじゅうろうさんは、midnight press の掲示板や楽天のブログ(お互い閉鎖済)を通じて交流があった詩人。情熱と疲労とその純度に惹かれていた。

 そのふくだわらまんじゅうろうさんの句がこんなところに・・・。「住まいネット新聞びお」
 鴉についてのエッセイに引かれている。他に引かれているのは、芝不器男、高柳重信、飯田龍太、金子兜太など。エッセイの書き手は小池一三という方。どういう縁であろうか。

住まいネット新聞びお 特集「カラス『考』―カラスは人間社会の写し絵
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by kotoba1e | 2010-12-20 09:51 | ことばと表現

入逢山西方寺開基実信房蓮生七五〇回忌法要 ほか近況

■12月14日(火)
 詩人の山猫氏、カタックダンサーのみみちこ嬢と、ささやかな忘年会。出町柳の「京亀」で白味噌のもつ鍋をいただいた。おいしかった。その後高野の「ぐるぐるかふぇ」で沈没。

■12月15日(水)
 桂川流域ネットワークの定例会。今年のイベント(流域見聞「胡麻」)の反省と、次年度の構想。来年は川魚を食べながら、川の環境について考える会になりそう。

■12月16日(木)
 不毛な会議の後、春日若宮おん祭へ。暗闇で神威に触れ畏れる。

■12月17日(金)
 若干の片付けものの後、太秦の入逢山西方寺の、開基実信房蓮生七五〇回忌へ。西山浄土宗×時宗×天台宗という異種格闘技セッション的な声明を味わう。寝不足もありあっと言う間に夢の世界へ。西方寺天下の副住職三輪愿宗さんの美声は素晴らしかった。その後伊藤悟さんの「ひょうたん笛」の奉納演奏。歌垣で使われるナンパの道具ということだが、ユーモラスな音色に頬が緩む。似たような(失礼)姿のひょうたん笛の中にあって、不思議な音色の笛が一本。びりびりいうようなノイズと、狭い音域と微分音的な音列、音楽と環境音の間のような音をしていた。会場にはオカポンさん、長根あきさん、モーさん、藤澤ばやんさん、ジャミーラさんといった方々の姿も。その後ぐるぐるかふぇにて沈没。

■12月18日(土)
 家内、次男とともにマンガミュージアムへ。二人は棚のマンガを読みふけり、私はやなせたかし展を観覧。すごい人だな・・・

■12月19日(日)
 京都学園大学の先生やアーティストが関わっているらしい「亀岡プロジェクト」へ。これについては改めて詳しく書こうと思う。亀岡盆地の産毛が生えたような柔らかい青空に少し癒された。亀岡駅から今回のプロジェクトの会場となった商工会館までの歩みは、自然とゆっくりしたものになるのだった。駅からは廃ビルにしか見えない商工会館だが、近づくとできた頃には相当ハンサムなモダニズム建築だったのだろうということがわかった。今度のプロジェクトは、この建物をプリズムにして、亀岡の風景とそのを作り出してきたものを、結像させていたように思った。
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by kotoba1e | 2010-12-19 23:37 | 日々のあれこれ

春日若宮おん祭

 17日、春日若宮おん祭に行ってきた。もちろん全部を見るのはかなわないので、午前零時に神さまが出てきて移動する遷幸の儀と、その直後にお旅所で行われる暁祭だけを見てきた。京都の家に帰り着いたのは午前3時30分くらいであった。
 特に森の中の暗闇の道で行われる遷幸の儀は、評判に違わぬ印象深い、というか衝撃的なものだったので、文章にしておきたいと思う。今日のところは、当日のメモ(twitter)をまとめておき、後で思いだすよすがとしておこうと思う


奈良公園なう。すごく寂しい&寒い。鹿の声がする 10:46 PM Dec 16th

月とオリオンがきれい。これから森へ 10:52 PM Dec 16th

鹿の目が光っている 11:13 PM Dec 16th

月明かりの木漏れ日!木漏れ月? 11:19 PM Dec 16th

離脱 11:44 PM Dec 16th

春日若宮おん祭りより帰還。遷幸の儀凄い。月明かりが差し込む深夜の森。耳も目も限界まで敏感になった状態で、見てはいけないもののすぐ近くまで行った感じ。震えが止まらなかった。月の光まぶしさを知った。 3:29 AM Dec 17th

森の闇の下でいくつも光っていた鹿の目は懐かしかった。 3:36 AM Dec 17th

街にはいなかった人影が森の参道で少しずつ密度をあげてきたときの高揚感はなんとも言い難かった。砂利道に落ちるまだらな影が、月明りによるものだと気づいたときに、多分日常から切れたんだと思う。 3:39 AM Dec 17th

行列の声と音は恐ろしかった。言葉にもならない声依然の声が森の闇の中、遠くから近づいてくるのは戦慄した。声が通り過ぎた後に聴こえてくる笙の音は、どう考えてもこの世のものじゃない 3:42 AM Dec 17th



なお、寮美千子さんがこの遷宮の儀と、翌日の田楽と還幸の儀についてつぶやいておられた。簡明かつ印象的なものだったので、togetterでまとめ、紹介させていただく。是非ご覧ください。
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by kotoba1e | 2010-12-18 23:54 | まち・地域・場所

粕谷栄市をめぐって

先日本屋に行ったら、思潮社から「続粕谷栄市詩集」というのが例の詩文庫から出ていて、おまけに豪華なオリジナル詩集として「遠い川」というのが出ていたので、思わず両方とも買ってしまった。まだちゃんとは読んでいないが、相変わらずの粕谷ワールドのようだ。読むのが楽しみ。ハガキ一枚に収まりそうな、ダークな散文詩ばかりなのだ。

これまで粕谷について思ったことを断片的に書き連ねてみる。

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岩波の「完訳アンデルセン童話集」シリーズのどれかに、「アマーガーのやさい売り女にきくがよい」という物語が含まれているらしい。また、同じくデンマークの19世紀の作曲家、ハンス・クリスチャン・ロンピに、「アマーガーの守り人」という曲があるようだ。キェルケゴールもデンマークの人であるから、アマーガーというのは、デンマークのどこか、豚か野菜のある農村的なところなのだろうか。ネットで調べても上記以外にほとんどヒットがなく、そうなると却って神秘的な場所のように思われてくるのであった。
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粕谷栄市にはヘビーメタル的なところがあるかもなあ。EarthのHexのジャケット写真なんて米南部の邪教の教会を連想させるしその一曲「Land of Some Other Order」なんてまさに粕谷的。
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粕谷栄市は古河市から一歩も出ない人らしいが、デンマークのアマーガーの風景やこのearthが提示する風景など、田園の陰惨と恍惚みたいなものを通じて世界と繋がってる気がする。
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by kotoba1e | 2010-12-12 02:22 | ことばと表現

豚たちのIMAGINE

 今日8日は、ジョン・レノンの命日。没後30年だとか。そんなに経つのか。歳とるわけだ。
 ロックンローラーとしてのジョンは、声もメロディもビートも好きだけれど、「愛と平和」のイメージにはずっと馴染めずにきた。そのイメージを今でも使ってる未亡人にもやや辟易。
 特にジョンの平和思想のシンボルともなっている「イマジン」は、どう考えても退嬰的な内容で、この歌が良きものとしてあまりものを考えていなさそうな連中に持ち上げられる度に、なんだかむずむずするような、嫌なものを感じてきた。それは好きだった清志郎が歌っても変わらなかった。

 ここに来て少し印象が変わったのは、まったく偶然かつ個人的な事情による。たまたま読んだ全く無関係な別の詩が、なぜか僕の脳裏に「イマジン」の風景を立ち上がらせたのだ。それ以来「イマジン」は僕にとってはこれまでと少し違った意味を持った歌になった。それは平和の風景には違いないのだけれど、決してみんなで目指すようなことはできないもの。もともと「イマジン」の中にあった退嬰性こそが、この歌の美点なのではないか、とまったく個人的に思ったのだった。
 迂回的な経路を辿ってこの歌を少し好きになったが、これを「愛と平和」の文脈で称揚する、ということはこれからもしないだろう。しようもないときに、一人で呟くことはあったにしても。

 ということで、たまたま読み合わせたその詩と、「イマジン」とを並べてみようと思う。みなさんはこの二つの詩から、どのような風景を得るだろうか。


IMAGINE John Lennon

Imagine there's no heaven,

It's easy if you try,

No hell below us,

Above us only sky,

Imagine all the people
living for today...

Imagine there's no countries,

It isn't hard to do,

Nothing to kill or die for,

No religion too,

Imagine all the people
living life in peace.

Imagine no possesions,

I wonder if you can,

No need for greed or hunger,

A brotherhood of man,

Imagine all the people
Sharing all the world...

You may say I'm a dreamer,

but I'm not the only one,
I hope some day you'll join us,

And the world will live as one.


啓示  粕谷栄市

 アマーガー平原に、私は、一度も行ったことがない。一生、行けることはあるまい。亡くなった方の書きのこしたもので、知るだけだが、私には、とても懐かしいところだ。
 典雅な白雲の丘がつづき、そこには、見渡すかぎり、沢山の豚小屋がある。その全ての丸太の柵は破れ、天から降ったように、数知れぬ豚たちが遊んでいるのだ。
 日が当たり、彼等は楽しそうだ。その一匹は、砂を浴びている。その一匹は土管をなめている。その一匹は、豚小屋の屋根にいる。そして、彼等は、美しく交接もする。
 至高のものが、愛されるのであろう。この平原に、その他のものは何もない。私ならば立てるであろう。その一番高い丘の上に、一つの立て札を。「アマーガー平原」と。勿論、それもない。
 ただ、おそろしく、汚ない服の男が、ひとり、そこに寝ている。そう呼ぶならば、おそらく、彼は、豚の番人
であろう。しかし、彼は眠っている、帽子を顔に乗せて——。
 いかなる黄金も、彼の平和と怠慢に及ぶまい。いかなる詩も、彼の帽子に匹敵できぬであろう。この平原を、
永遠に、昼は去ることがないのだ。

 生きることが苦しい時、よく私は、自らに呟く「アマーガー平原」と。
 私は、何も知らない。が、いみじくも、今から百二十年前、確かに同じことを、呟かれた方がいる。無学な私は、時々、その名を間違えるが、たしか、キェルケゴール氏と言われる。


 僕は豚の楽園と並べて「イマジン」を貶めようとしたのではない。そうではなくて、このことで「イマジン」は固有の意味、あるかけがえのなさを持った歌になったのだ。粕谷の「啓示」を得て、僕の中ではこの二つの詩の風景は分ち難く一つのものになってしまった。永遠に昼の去らない、幸せな平原。遠く想像される、そこに暮らすこの尊い豚たちが、「イマジン」の淡々とあかるい人々と似ているのは、いまや僕にとっては確かなことなのである。そして、この二篇を串刺しに読むことで、「イマジン」は、「アマーガー平原」と同様、呟くに足るものになったのだった。
 「粕谷栄市詩集」(思潮社、現代詩文庫67)所収の、粕谷自身による「散漫なおぼえ書き—来歴について」によれば、アンデルセンの自伝にキェルケゴールの言葉として「私は詩人となり、人々の共感と賛辞に囲まれて生きるよりは、アマーガーの平原で、豚の番人となり、豚たちの友愛と共感をかち得たい」というのが引かれているのだそうだ。そして、その120年後、粕谷はその平原を夢見直した。ジョンがキェルケゴールの「アマーガー平原」を知っていたかどうかは知らない。だがキェルケゴールや粕谷が幻視したのと同じ風景が、時と場所を隔ててジョンをもよぎったのではないか、と思うのである。
 昼が去らない故がに、この平和の風景は僕たちの日々とは繋がらないであろう。僕たちの平和を巡る闘争とは関わりのないところに、この平原は広がっている。それ故に、これらの歌は平和の風景を不思議な明晰さで伝えることができるのだと思う。
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by kotoba1e | 2010-12-09 00:27 | ことばと表現