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谷川俊太郎に関するこれまでのエントリ

 昨晩、谷川俊太郎の「路上」について、乱暴にだが触れた。
 これまでもこのブログ上で谷川の詩について何度か書いて来ているので、とりあえずここで一覧にしてみる。

 「すこやかに〜」以降は、何かが決定的に変わってしまったのではないだろうか。それまでの谷川のアティテュードの基本が「無限遠から見ること」だったとすれば、それ以降は「内側を見ること」がそれになったと言えるのかもしれない。そこにあらわれる見解は、多くの「癒し系」とそう変わるものではないが、特別であることや変わっていることなどどうでもよい、と谷川も思っているのかもしれない。

谷川俊太郎に関するこれまでのエントリ
詩と謎
貧しさとしてR&R、貧しさとして谷川
『がっこう』をめぐって
なんという過去
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by kotoba1e | 2010-01-28 22:40 | ことばと表現

「OCA!大阪コミュニティアート アートの力を信じる」における小沢健二と谷川俊太郎

「OCA!大阪コミュニティアート アートの力を信じる」というイベントが、さる1月23日に開催されたという。Skype経由で小沢健二が講演し、谷川俊太郎があいりん地区を歩いて詩を作って朗読した、ということだ。
これについて、「松本竜也の日記」が素晴らしいレポートを提示していた。僕も現場に行っていないのだが、このレポートには考えさせられるところ大だった。今日の昼間は閲覧できたのに、今はプライベートモードになってしまって見られなくなってしまっているのが残念。
 詳細はそちらを見ていただきたかったのだが、小沢健二の指摘の鋭さにはびっくりした。松本さんによれば、彼が論じたのは、「なぜイギリスの行政は貧しい地区でのアート振興にお金を出すのか、彼らは何を狙ってアートを援助したのか」というテーマ。そして、「労働者の街」へのコミュニティ・アートの導入というのが、実は彼らの社会的馴致を目論むネオリベラリズムの戦略である、というのがその主張であったようだ。松本さんのレポートで紹介されていた、イギリス行政におけるコミュニティ・アートの「機能」や、「セルフ・エスティーム」を巡る議論は、丁寧に考えてみたいと思った。
 それに比べて、当日は好評だったという谷川俊太郎の詩はくだらないものだとおもった。当たり前だが、谷川さんはすごい詩人だし、僕も好んで読んでいる。若いころから書き続けられた、見る者認識するものの孤独を浮き彫りにする詩群は、恐ろしいものだと思う。でも、「すこやかにおだやかにしなやかに」(佼成出版社、2006)以降、安易な癒し系に堕してしまったのではないか。今回あいりん地区を歩いて作ったという、この詩はどうだろう。

アサヒ・コムより

「路上」(部分抜粋)

 ここに座って
 なんにもしないでいると
 咲いてる花のココロになる
 ただ咲いてるだけと
 ただ座ってるだけ
 似たもの同士
 それがいのち
 もしかするともうおれ
 人間じゃないかも
 でもいのち
 月を見て
 雲に抱かれて
 いつか死ぬまで
 この世にいる
 あの世はどんなとこかなー
 それ お楽しみに
 とっておく


 こんな、ひなたぼっこをしている良寛さんみたいな詩が、釜ヶ崎の労働者たちの詩になりうるだろうか。
ぼくは嫌な「鈍さ」を感じてしまった。こういう何かを隠蔽してしまうような微温的な感動こそ、嫌悪すべきものなのではないだろうか。
 それに比べると、オザケンはやっぱりロックだと思った。

 松本さんが書いていたように、小沢健二が言っているのは相当過激なことであり、彼がある種の「革命」を夢見ているのであろうことがよくわかる。
 議論の詳細は、又聞きになるしここでは紹介しないけれど、共同体的なもの、前近代的なものにシンパシーを持っている僕の立場とは180度違うものだ。違うものだが、システムによる平準化に抗する、という点では少し似ているのだろう。小沢氏もソウル好きみたいだしね。

 機会があればまた詳説を試みたい。

 なんであれ、これを企画した「ココルーム」は、表現と街の現実について問題提起をしつづける、一つの核であることはまちがいない。
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by kotoba1e | 2010-01-28 00:23 | まち・地域・場所

Community Art Festival ほか

■1月16日(土)
 「Community Art Festival」という連続講座の話題提供者として、寺町今出川下るの「でまち家」へ。同志社が町家を借りて使っている施設らしい。「天若湖アートプロジェクト」について縷々。会の主旨が今ひとつのみこめていなかったので、少々まとまりのない話しになってしまったことを反省。それでも、集まったみなさんにはそれなりに考え楽しんでいただけたようで良かった。思わぬ出会いや再会もあったし。
 次週以降は、芹沢高志さん、寺脇研さんというビッグネーム。興味のある方は是非。

■1月17日(日)
 子どもと都心へ。カメラ用の三脚と三味線俗曲のCDその他を買って帰る。
 夜はみんなで外へ。下の子がサンタさんにもらったという、入門用の天体望遠鏡(15倍,35倍)を三脚に据え付けて近所の公園へ行った。すばる(プレアデス星団)が、低倍率の双眼鏡でもきれいに見えるということを、この歳になって知った。子どもにそう言ったら、「僕もこの歳になって知ったよ!」とのこと。そりゃそうなんだけどさ(笑)。子どもの望遠鏡でも、かなりよく見える。京都の街中では、肉眼ではそんなに多くの星があるようには見えないが、低倍率の視野の広い望遠鏡で見わたすと、思いがけず多くの星を見つけることができる。オリオンの三ツ星から下がる剣の鞘も、双眼鏡や望遠鏡でははっきり見ることができるのだった。京北や日吉でなら、肉眼でもはっきり見えるのだろうが、京都市内でもこんな簡単な道具で、それが見えてくるのは正直驚きであった。オリオンの剣を見ていると、その中の大星雲も見てとれる。子どもたちはすっかり夢中である。
 テレビでは震災関連の番組が多く放送されていたようだった。興味を引かれた番組も多くあったが、結局ほとんど見そびれた。六甲台で経験した、15年前のあの朝のことを、少し思いだす。気には掛かりつつも「はっきりと」は思いださないことに、おそらく「そこを離れた当事者」としての意味があるのだと思う。そこを見つめてみようと思った。

■1月18日(月)
 日中はだらだらと過ごしてしまった。午後からは「ひとまち交流館・京都」で、「天若湖アートプロジェクト2009」の精算事務。夕刻さとうさんも合流して黙々と作業をする。一定の目処が立ったので、よしとする。27日の実行委員会では、一定の報告ができるだろう。
 「ひとまち交流館」そばの「キコク食堂」で夕食。大衆居酒屋というたたずまいだが、客の中におっさんはいなかった。飲んでいると、静かなカウンターになじみらしい年を経た美人がぱらぱらと訪れては、飲んだり帰ったりしていく。高瀬川沿いの楽園のお姐さんたちのようだ。なるほど「この街」の食堂なのだ。どて焼きが美味しかった。
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by kotoba1e | 2010-01-19 00:34 | まち・地域・場所

建設重機と衣料

びっくりした
  ↓  ↓
http://www.pornovisioni.com/bgqysak/

カオスだなあ・・・こういうサイトって、自動生成なんだろうか。
必要があってユンボのアームとバケットの形状をしらべていて発見。

ユンボは人気者ですね。YouTube にもたくさん。
http://www.youtube.com/watch?v=QEgsqZIDnkA&feature=featured
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by kotoba1e | 2010-01-16 17:44 | もろもろ感想

なんでもいい

 これまで、酒を選ぶ時は、なんだかそれなりに旨そうなのを選んできた。そんなに味も判らないくせに、それなりの蘊蓄を傾けてもっともらしく選んでいたのだった。2リットル900円の日本酒とか、プラスティックの巨大なボトルに入った焼酎とか、そういうのはどこかで差別していたのだった(本当の差別意識だったと思う)。こんなのを飲むようになったらアル中だ。俺は違うんだ。と思っていた部分もあったのだろう。
 最近そのあたりがすっかり緩んでしまった。多分いいことなのだと思う。安酒は味の判らないものが大量に飲むイメージがある。美味しいと言われる酒は、味の判る人が少し飲むイメージがある。まあこれらはあくまでもイメージに過ぎないのだった。味が判ると思われたかった僕は、少々高い純米吟醸とかを選んで、それが旨いものだからバカバカ飲んでいたのだった。大衆酒の方はどうかというと、馬鹿にして飲まなかったのだが、飲んでみるとそれはそれなりに進歩していることがよくわかった。それで最近は晩酌はこういう安酒に切り替えたのだが、これだとそこそこでしかもあんまり馬鹿飲みしない。というかできないのだった。
 あらためて考えると、安いのを少しずつ飲む、という形になってきたので、これは実は家庭の経済を考える上でも画期的なのではないかと考えはじめている。
 この私の発見を、妻にも教えてあげたいが、台所下の料理酒を飲んでいるのばばれるのは、やはり少々バツが悪いのだ・・・。
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by kotoba1e | 2010-01-14 02:32 | のみものだもの

去年は本を読まなかったが・・・

 去年はどうした訳か全然本を読まなかった。町田康の『告白』を読んだくらいで、理屈っぽいものは全然頭にはいってこなかった。詩も読めなかった。
 今年は年始早々、軽いものが多いけれど本を手に取っている。今日は内田樹『街場の現代思想』(文春文庫)と河合隼雄『中年クライシス』(朝日文庫)を読了。永井均・小泉義之『なぜ人を殺してはいけないのか?』(河出文庫)を半分くらい読んでいる。
 内田先生はよくまあこんなことをこんなによみやすく面白く書くものだと思う。内田オリジナルの見解ではないのかもしれないが、
 人間と他の霊長類を分岐する決定的特性は何であるか、みなさんはご存知であろうか。人間だけがして、チンパンジーやゴリラが決してしないこととは何か?
「道具を使う?」
 ノー。他の霊長類にも簡単な道具を利用する能力はある。
「ことばを使う?」
 ノー。記号を使って意思疎通をする動物はいくらでもいる。
「社会を作る?」
 ノー。サルの社会は人間社会と酷似している。
 人間だけがして、他の霊長類がしないことは一つしかない。
 それは「墓を作る」ことである。(略)
「死んだ人間」がぼんやりと現前し、その声がかすかに聞こえ、その気配が漂い、生前に使用していた衣服や道具に魂魄がとどまっていると「感じる」ことのできるものだけが「葬礼」をする。(略)
 人間が墓を作ったのは、「墓を作って、遠ざけないと、死者が戻ってくる」ということを「知っていた」からである。(略)おそらくは、「戻ってこないように重しを載せる」というのが墓の本義なのだ。
 人間の人類学的定義とは「死者の声が聞こえる動物」ということなのである。そして、人間性にかかわるすべては、この本性から派生している。

というくだりには慄然とした。
 一読して、他者シュミレートに関するミラーニューロンの機能の話や、「心の理論」や自閉症、アスペルガーのこと、現象学における間主観性の問題と繋がって理解された。そうだったのか。
 おそらくこの本にはいろんな「そうだったのか」ポイントがあって、いろんなところでいろんな人が膝を打っているのに違いない。
 でもここが、レヴィナスを徹底的に読んだ人としての内田先生がすぱっと出たところなのではないか、という気もする。
 『なぜ人を殺してはいけないのか?』を読んでいると、永井先生はなんだかちゃんとしてるけど呑気な感じがする。まあ剣呑な話題でも落ち着いて考えるところが哲学なのかもしれないけど。そのあたりはよくわかりません。この「殺す」問題がどこかで独我論の乗り越えとつながっていそうなのはわかるけれど、その分析手順はなにか俯瞰的なテーブルマジックのようでもあって・・・。まあこの続きはまた素面の時に。
 小泉先生の方はやっぱり切迫感があって辛い気持ちにもなる。でも小泉さんの部は常に他者のあらわれとかかわりのようなものがひりひりと感じられるもので、読んでいて思わず引き込まれる。
 内田さんと小泉さん、「上機嫌」と「しんねりむっつり」ということで、世間的な印象は真逆という感じかもしれないけれど、実は案外似ている気がする。他者がどんな風にあらわれてきてしまうのか、ということへの視線の向きは似ている気がする(永井さんは全然違った)。たぶんレヴィナスの教えを共有している二人なのだと思う。
 という訳で、今年はレヴィナスを読んでみたいと思う。確か石川和広さんが読まれていたな。歩き酒をしながらきいてみよう。
 そういえば、石川さんから「tab」の最新号を送っていただいた。ありがたいことである。今年は詩的なもののあらわれへの感覚を復活させたいものだ。倍音から風景への回帰になるのかも。
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by kotoba1e | 2010-01-14 01:49 | もろもろ感想

お見舞い

 昨年末に入院した義父のお見舞いに、家族で行ってきた。
 それまで元気だったのが、ほとんど急に、ものを握れなくなり、立つこともできなくなったのだという。ひどいときには目蓋も垂れ下がり、明瞭に発音することすらおぼつかなくなったとのこと。全身の筋肉から力がなくなったということなのだった。
 どうやらギラン・バレー症候群が疑われるということで、担当のお医者さんの機転で、正月休み明けになる検査結果を待たずに、大急ぎでグロブリンの大量投与が行われた。これが奏効したようだ。
 今日顔を見たところでは、少し元気がない感じはしたけれど、普段の義父とそう変わらない感じだった。最も重かった頃のことはなかなか想像できなかったが、本人からお話をうかがうと慄然とする。

 原因として考えられるのは、その前に打った新型インフルエンザ用のワクチンくらいしか考えられないという。調べてみると、インフルエンザワクチンの重篤な副作用の可能性としては、ちゃんと列記されているのだった。自分の末梢神経を抗体が攻撃してしまう自己免疫疾患なのだそうだ。どうやらインフルエンザウイルスと神経とに、似た構造の部分があって、抗体が勘違いして神経を攻撃するらしい。それで神経がいうことをきかなくなって、筋肉が動かなくなるというのだが、根治するための方法は見つかっておらず、難病という扱いになるようだ。重い場合には呼吸に必要な筋肉が動かなくなって死ぬこともあるという。
 今年に入ってからの急速な回復を見ると、今後もそんなに怖がらなくても大丈夫そうな気もするが、完全に筋力が戻るかどうかは予断を許さないし、やはり生活には注意が必要になりそうだ。

 インフルエンザワクチンのリスク、最近は取りざたされることが少ないが、改めて痛感することとなった。みなさんもお気をつけ下さい。
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by kotoba1e | 2010-01-12 01:39 | 日々のあれこれ

虎虫

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by kotoba1e | 2010-01-06 08:41 | 日々のあれこれ

あけましておめでとうございます

新年あけましておめでとうございます

いろいろやり残しの多い元旦となってしまいました。
部屋の掃除もまだ途中。

先ほどゴミ袋と飲み物を買いにコンビニまで出たら、いろんな方角から鐘の音が聴こえてきました。京都だから当たり前なのかもしれないけれど、これまで何故か聴いたことがありませんでした。奈良にいた頃は毎年聴いていたのだけれど。

一週間ほど前に義父が倒れ(インフルエンザワクチンによるギランバレー症候群)、一昨日は長男が手首を折りました。仕事初めまでの宿題も山積。あわただしい正月になりそうです。でも今日は、新しい一日を満喫したいと思っています。

みなさまにおかれましても、よい一年となりますように。
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by kotoba1e | 2010-01-01 02:48 | 日々のあれこれ