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内田樹「下流志向」(2)

 「学びからの逃走」は先人の民主化と人権拡大の営々たる努力の歴史的成果としてようやく獲得された「教育を受ける権利」を、まるで無価値なもののように放棄している現代の子どもたちのありようを示す言葉である。彼らはこの「逃走」のうちに「教育される義務」から逃れる喜びと達成感を覚えているように見える。この倒錯はなぜ生じたのか。


 彼らは「学ばない」ことに積極的なものを見いだしている訳だ。この本の話題と直接重なるものではないかもしれないが、そういう人々は今までもいた。
 たとえば「宗教」を持たないこと、「信仰」を持たないことをして、そういうものを持つ人たちより高みにいると考える人々である。
 また、己の「民族性」について思考することを放棄することによって、民族間の対立に苦しむ世界中の人々よりも高い視点を得たと思い込むような人々である。

 あることを「知らない」ことは、そのあることから自由であるということなのだろうか。そしてそれは、そのあることを客観的に眺められるということだったのだろうか。とてもそうは思えないのだが、戦後の日本人の思考には、こういう不思議な形式が随所に見受けられるように思うのだ(「戦争は愚か」と即座に断言してしまう平和主義というのも、そういう種類の空疎さをもつ考え方のように思われる)。

 教育とは抑圧的なものであり、本来の人間の自己形成力を阻害するものだ、という考え方がある。こういう考え方がポピュラーなものになってくれば、多くの人の間で、教育を受けないことに積極的な価値が見いだされるようになっていくだろう。そして自身がものを知らないというそのことを根拠にして、ものを知る人たちを蔑視することが可能になる。
 今の教育現場で起きていることとは、そういうことなのではないのか。そしてこれは戦後的な、個人に内在するものに極度に信頼を置く楽観的な人間観の帰結だったのではないか、という気がする。
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by kotoba1e | 2007-03-25 01:07 | もろもろ感想

内田樹「下流志向」 (1)

 内田樹「下流志向」を読んだ。切れ味するどい分析とユーモラスで分かりやすい語り口はさすが。この本は企業での講演をまとめなおしたもので、内田が専門とする哲学の本ではない。また著者が前置きで断っているように、これまでなされてきた議論について著者なりの整理を行ったものという性格が強い。そういう点では内田樹オリジナル、という本ではないのかもしれないが、ブログなどでもおなじみの、内田のポピュラーな方の魅力は存分に味わうことができるものだ。

 この本の中心的なコンセプトは、「消費主体として自己確立してしまった子ども・若者」だと思った。学力低下問題、ニートの問題ともこのアイディアを使って読み解いていく。


 今の子どもたちと、今から三十年ぐらい前の子どもたちの間のいちばん大きな違いは何かというと、それは社会関係に入っていくときに、労働から入ったか、消費から入ったかの違いだと思います。
 僕たちが子どものころ、もう四十年以上も前の話ですけれども、子どもの社会的活動への参加は、まず労働主体として自分を立ち上げるかたちで進められたと思います。(略)
 子どもが家族という最小の社会関係の中で、最初に有用なメンバーとして認知されるのは、家事労働を担うことによってだったわけです。家族に対して、わずかなりとも労働力を提供し、それを通じて、感謝と認知をその代償に獲得し、幼い自我のアイデンティティを基礎づけてゆく。そういうところから子どもの社会化プロセスが始まった。(略)
 ところが今はそうではない。(略)そういう機会をほとんど構造的に奪われている。
 (略)労働の中にある種の遊戯性が含まれているものや、達成感をもたらすものや、社会訓練や自然学習などに結びつくものは、もうほとんど残されていない。犬の散歩とか、打ち水とか、庭の草むしりとか、そういうドメスティックな自然とかかわる作業には多かれ少なかれ子どもでも時間を忘れて夢中になるような要素がありましたけれど、もうそういう仕事は家庭内にはありません。
 (略)何よりもまず消費主体として自己確立することを、今の子どもたちはほとんど制度的に強いられています。(略)
 (略)今の子どもたちは、もしかすると、その過半が生まれてはじめての社会経験が買い物だったということになっているのではないでしょうか。(略)
 消費することから社会的活動をスタートさせた子どもはその人生のごく初期に「金の全能性」の経験を持ってしまう。そのスタートラインにおける刷り込みの重みは想像される以上に大きいと僕は思います。それは単なる拝金主義的傾向が刻印されてしまうということとは違います。そうではなくて、消費主体として立ち現れる限り、買う主体の属人的性質については誰からも問われないということです。(略)
 当然、学校でも子どもたちは、「教育サービスの買い手」というポジションを無意識のうちに先取しようとします。彼らはまるでオークションに参加した金満家のように、ふところ手をして教壇の教師をながめます。
「で、キミは何を売る気なのかね? 気に入ったら買わないでもないよ」それを教室の用語に言い換えると、「ひらがなを習うことに、どんな意味があるんですか?」という言葉になるわけです。


 かくして、子どもたちは教育というサービスを、授業を受ける苦痛と等価交換的な秤に乗せるようになるのだというのである。

 だがある場所である経験を強いられ(ると感じること自体問題なのかもしれないが)る苦痛を、貨幣と交換可能なものであると感じる感じ方というのは、消費主体というよりは、サラリーマン的労働者のそれの方が近いのではないかと思った。まあどちらにしても、すべてを計量可能、貨幣に兌換可能であるとする市場的な感覚には違いないけれども。
 労働が生み出す価値そのものではなく、「拘束時間」に値段がある、と普通の人が考えるようになってだいぶ経つのではないだろうか。バブルの頃には、新入社員候補者たちを、労働によってではなくパーティーによって拘束するということさえあった。単位時間当たり単価で計量される人間の価値というものを、一般の市民が受け入れるようになったところから、「教育というサービスを、授業を受ける苦痛と等価交換的な秤に乗せる」ことが始まったのではないかと思うのだ。
 内田が挙げる労働による自己確立のイメージもひどくロマンチックなものだ。現代の賃労働は、遊戯的な質や達成感、社会的な意義深さの感覚とは切り離されたところにある。むしろそのことに積極的な意味があるといったものである。メンバーとしての認知とアイデンティティの獲得の問題というのは、職場空間の中で大きな意味を持っているかのように見えるが、むしろそれは労働者のコントロールのために機能していて、労働自体は家族や地域社会といったコミュニティからはいっそう切り離されたものになっている。
 内田は「消費/労働」の二分法を使って論を進めていくが、むしろ内山節の「稼ぎ/仕事」の二分法の方が、すっきりと議論になじみそうに思われた(「稼ぎ」は消費社会の中で金銭を得るための労働、「仕事」はコミュニティに寄与し同時に自己に深い納得が帰ってくるような種類のもので、「ドメスティックな自然とかかわる作業」を多く含むものである)。
 消費を悪者にしても、今の世の中どうしようもないが、仕事のありようについては、なんとかしていける部分もあるように思う。大人自身が、深く納得しながら幸せに働ける環境を作り出すことができれば、学びのイメージと意義も変わっていくはずだと思う。それにはまず先生の労働環境をなんとかしないといけないのかもしれないが。

 というのは小言であるが、全体としては目から鱗が何枚も落ちる本である。特に教育に近いところにいるものにとってはそうだと思う。ディテイルにおいても、立ち止まって考えてみたくなるテーマがそこかしこにある。浅くも深くも読める本である。買って損のないベストセラーだと思った。



Last updated March 21, 2007 23:26
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by kotoba1e | 2007-03-21 23:26 | もろもろ感想

自ずから然るということ

 二年ぶりくらいに部屋の大掃除をした。どこに何があるかではなくて、どこに何が生えているかわからないというような状態になりつつあったので、家人からの苦情に屈し、さすがに片づけざるを得なくなった。
 机はすでに机の用をなさない。というか、どこに机があるのか判りにくいようなありさまであった。机の上に物がうずたかくフルヘッヘンドしているのと同じくらいに、床からも諸物が伸び上がっているからである。床に積まれるのは、始めのうちは雑誌や本である。こういう物体は平面性に秀でているので、床の上に放り出しても、それなりに確かな収まりかたをしてしまうので、この時点ではあまり乱雑な感じはしない。だが気づくと—これは本当にいつのまにかとしか言いようがないのだがーなんだかよくわからない塊が部屋を覆っているということになっているのである。
 始めは平らに積まれていた物が、次第に文具や楽器、種々の包み紙や菓子の残りのようなものを挟み込むようになり、当然その建築の安定性は損なわれてだんだんと傾いていく。その一方で別の所では小さいものの上に大きなものが載せられ、これもまた危なっかしいことになっている。こういったもの同士が、相互に支えあう場合もあるが、それは幸運な偶然が働いた場合に限られ、將棋倒しという道を辿ることもまた多いのである。
 こうなると、部屋の主としてはもうどうかしようと言う意志を失ってしまう。それらの塊を除去する、または直立させるということが要求する時間と労力を想像するだけで、胸は塞がってしまう。なにも今しなくてもいいではないか、と思うのだが、そう思ったときには、また堆積が始まっているのであった。残骸の上に新たに物が積もりだし、いつしか複雑な地層が形成されることになるのである。
 こういうことであるから、僕は片づけられない人間として、家でも職場でも常に批判されてきた。
 しかし断じて言うが、僕は散らかそう、汚くしようという意志をもって部屋を汚してきたことは、これまで一度だってなかったのである。その時その時のやるべきことは、それなりにやってきたつもりである。例えば本を読み、学んだ。ただ、それを書棚に返すことができなかっただけだ。そしてこれは、読書そのものとはまったく関係ないことである。
 部屋の堆積と成長は、僕の意志の外側で起きていたのである。森において樹木が成長するように、鼻孔において鼻糞が成長するように、知らないうちに、部屋は成長して一定の形を持つに至った。これは、僕の力の及ぶ外側でのできごとであった。むしろ自然現象だったのではないかと思うのである。
 そしてさらにいえば、「自然」とはこのような、操作を断念された、不作為の領域のことをも、もともと含んでいたのではないかと思うのだ。

 いきなり話は飛ぶけれども、近年里山ボランティアというのが盛んだ。一九六〇年代の燃料革命によって経済価値を失ってしまった薪炭林が、放置によって荒れてきているという。それを市民の手によって、「生態学的に良好な状態に維持管理」しよう、というのである。
 僕が不思議に思うのは、こうした活動の中で「かつての里山は生態学的に理想的な管理をされていた」というような言葉が聞かれることだ。炭や薪にするために木を切っていたことが、森の環境を良くしていた、というのだ。
 たぶんそのこと自体は、確かなのだろう。疑問に思うのは、そういう伐採が、「管理」するぞという意識のもとで行われてきたのかどうかということだ。現在里山ボランティアたちがそこの環境を守る上では、木を伐ることは、「管理」に他ならないが、かつての里人が山に柴刈りに行くというとき、それはあくまでも柴刈りであって、「管理」ではなかったのではないか。この二つは、客観的にはまったく同じ行為であることもあるのだろうが、その「刈る人」にとっては、まったく違う意味を持っているように思う。そして彼らに捉えられている「自然」もまったく違ったものなのだと思う。
 もちろん、昔の里人だって、木を伐り倒し森を明るくすることが、どんなことをもたらすかは(今日の生態学者やボランティア以上に)知っていたはずだけれど、そこから森がどう蠢いていくかは、彼の作為の外だったのではないかと思うのだ。
 伐られた森は、伐られたことを一つの契機としながら、それはそれとして独自の生を生きていく。そして人はその傍らをまた生きていく。その交渉は、「管理」とか「意志」とか「支配」といった世知辛いものでは、多分なかった。そこには肉親あるいは己の半身のような親しさがあり、疎遠になったときには、そうした近しさ故の容赦のなさがあったのだろう(戦後の開発による風景の破壊の背景には、そんなDV的な残酷さがあるように思う。)

 「支配」や「管理」の対象として直視しないこと。その自由な運動を横目で許すことで、里山は命に満ちたものとなる。それは、里山が「多様な『生物』を住まわせているから」では多分ない。そのような、自由な運動を横目で許す態度そのものが、そこに生命を呼び寄せるのだ。何者かが「生命」をもってそこに顕れる、ということと、それが生物であるということは、いつも同一視されてしまうけれど、おそらく違う問題なのだ。
 これはおかしな考え方だろうか。でも、「支配」と「管理」の視線を向けられた人は、そこでは既に生きた人間ではない(この視線は今や誰もに注がれているけれども)し、一方「神」というのは常に、さっき述べたような仕方で「生命」あるものとされてきたのではなかったか。神はいつだって、人間が直視したり支配したりできない者だった。もしかしたら、神とは僕たち自身の不作為の集合体なのかもしれない。
 整理整頓は、その空間の隅々まで視線で射抜き、管理しようとする意志の現れだ。支配すること、すべてのものの管理が可能であると考えること、そういう視線で世界を眺め渡すことに、たぶん僕たちは慣れすぎたのだ。この視線はメデューサの視線で、眺め渡された世界は冷たく凍り付いてしまう。言葉は世界に触れることなく、管理下でのトートロジーが増殖し始める。今世に溢れている、既視感を伴う言葉たちは、こういうものなのだろう。

 そういう訳で、僕の部屋には神がいる。大切なものを不意に隠したり、思わぬ時に顕現させたりして、僕を畏れさせる。大掃除の直後の今は、刈られた山のように明るいが、またいずれ暗く潤った森へと育ってしまうのだろう。
 話が大きくなってしまった。片付けられない言い訳は、もうこの辺にしておこうと思うが、整理と計画に追いまくられるのも確かに窮屈なことだ。いいかげんであることは犯罪であるかのように言い募られる世の中だけれど、ちゃんとしすぎると見えなくなるものも、多分あると思うのである。


初出:tab第2号(2007年1月発行)
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by kotoba1e | 2007-03-14 09:41 | 自然と景色