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倉田良成「東京ボエーム抄」

 昨晩、倉田さんからいただいた「東京ボエーム抄」を読んだ。
 読んでいるときは、どこか懐かしい東京を舞台とした青春記という印象だった。だったのだが、布団に入って眠りにつきかけたときに、この本の余韻が効いてきた。僕自身のいろいろな記憶と、それより十年は早いはずのこの本の各場面が入り交じり、突き上げてきたのだった。眠りと近づいたり遠ざかったりしながら、東京の混乱した西半分を歩いた。たまらなくなって眼を開けたら、真っ暗なはずの天井が白々と輝いていた。光がどこから入ってきているのかはまるで判らなかったけれど。
 この浸透力は何だったのだろう。何か心の深いところに食い込んできてしまった感じだ。送っていただいた「ゆぎょう」などで見たことのあるものも数篇あったけれど、この流れの中に置かれるとまったく異なった意味を持ち出すようだ。
 一篇一篇は、エッセイのような散文体で書き始められていて、決して読みにくいものではない。具体的なエピソードや風景をはらみながら、まるで物語であるかのように進行して、響きあわせられるかのように引用された詩にぶちあたり、終わってしまう。こうした形式のものが19篇と、末尾を締める行分け詩が1篇。そのタイトルの多くは引かれている詩の中の言葉が多いようだが、必ずしもそうではない。またそれらの詩群は、出来事の順に並んでいるようにも見えるが、これもまた必ずしもそういう訳ではないようだ。
 冒頭の「とんぱた亭」は、大病を得て入院中の「私」が外泊許可を得た時のもの、ということで、比較的最近のエピソードのように読める。また19篇の最後の「舟泊て」は、いつもとは違う線を使って横浜へ帰る道筋で、異様な感覚を得る話で、これも最近のことのように思われる。その間に挟まれているのは、「私」が十代だったり、学校を辞めて友達の飲み歩いていたり、時代の闘争に加わったりという、1970年頃だろうか、そのあたりを中心とした若い「私」の身の回りの話である。この辺りのエピソードからは、当時の街の空気がページから立ち上ってきそうな感じもあって、愉しく読むこともできる。だが、そのどのシーンにも、密度と感触をもった明るい闇のようなもの、ある永遠のようなものが訪れそうになっていて、多分僕はそこに畏れを感じたのだと思う。
 これは倉田さんの詩にはいつも感じられる、ある彼岸性のようなものなのだけれど、それがこの一瞬において顕現しているだけでなく、今までずっと共にあったものなのだということを知らされるのだ。末尾の「舟泊て」で、いつもと違う電車に乗って方向と時間の感覚を狂わされてしまった「私」はこう言う。



線路の左手にふいにいつもの鶴見神社が見える。鶴見駅の手前で東海道線や京浜東北線と合流したのだ。しかしそこで下車するのでない私の感覚は元に戻らない。なんだか青空の下で輝いている鶴見の駅舎の白壁が、ずいぶん遠いものに思えるのだ。やがて最初にそこから乗ってきた京急の生麦駅が姿を現す。光に霞んで、ほとんど懐かしい思い出、もう手の届かない若い日々の記憶のように。(中略)自動ドアが開き、妻と私はホームに立つ。だが、私たちが到着したこの横浜とは、ほんとうは何処なのか?



 青春の日々は、こうしてループの中に封じられる。だが、それは単なる繰り返しではなく、繰り返しのように見えながら、実は未知との絶えざる出会いなのだ。この無時間性のなかに、現在も青春も等しく存在している。その構造を、一冊まるまるこの本が体現してしまっているように思った。だから全体を読み終えた後で、じんじんと意識の下部から効いてきたのだと思う。
 素晴らしく、恐ろしい本だと思った。

 この本は非売品である。奥付にそう書いてある。だからAmazonとかそういうところでは手に入らないだろう。そしてその奥付の上に、シリアルナンバーが押してある。僕の手元にある版は、「22」と刻印されている。まるで版画作品のようだ。このシリアルナンバーは、唯一のものとしての詩との出会いを保証し、強いるものであるようにも思われた。そしてそうした迫力がこの詩集には確かにある。
 読みたくなった方は、 倉田さんのホームページに連絡先があるので、そこから連絡を取ってみて下さい。


 ここではあまり触れなかったけれど、時代、世代というものについても深く考えさせられた。これについてはまた別に触れたいと思う。
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by kotoba1e | 2007-02-07 00:13 | もろもろ感想