<   2007年 01月 ( 1 )   > この月の画像一覧

おとをかぞえて

 開け放たれたベランダから、団地の中を走るトラックの音がする。よくわからない鳥のぢぢっというような声、車のドアを閉める音、遠いスクーターの音、すずめの声、これで五つ。商用車がバックする音もした。よくわからないぱたぱたいう音。ぱこという音。そんな一度きりの音がある向こう側でずっと鳴っていたようなのに、聴こえていなかったかすかなうなりのような音。波のような音。遠い音。このあたりまでくると、一つ一つの音を聴き分けることは難しくなってしまった。もう数えることなどできない。音の個体を包み込む皮膜は溶けてしまっているようだ。そこから振り返ると、まるで当たり前のように聴こえていたはずの身近な音たちの輪郭も、急に所在なく思われてきた。
 最初に聴こえた音たちは、みな「○○の音」として意識のなかに現れてきた。それらはみな明瞭なかたちを持っているように思われた。その向こう側から聴こえてきたのは、何が鳴っているのかよく判らないが、音として確かに捉えられる音、「○○な音」と形容したり擬音語で言い表したりできるように思われるものだった。そしてそのさらに先におぼろげに聴こえるのは、音であるらしいとしかいいようのない、そういう広がりなのだった。
 「○○の音」として、まず音を聴いてしまうという習慣は、考えてみれば奇妙なものである。車の音、のこぎりの音、鳥の声、なべの煮える音、子どもたちの笑い声、ギターの音、歌う声・・・。ほとんどの音はそのように聴かれている。そうでない、意味を与えられる前の音は、耳に入ってきていてもほとんどの場合、聴かれていない。音は常に何かの音でなくてはならないという、人間側の約束があるかのようだ。僕らが生きる意味の世界では、全ての音が「○○の音」であるのは当然なのかもしれない。だがそういう音の向こう側に、意味を与えられる以前の音が、やはり常に鳴っているというのも、耳を澄ませばすぐにわかる事実なのだ。世界の外皮は思わぬ近さにある。
 僕たちはものを視るとき、そのものを視た、と思ってしまう。これは不思議なことだ。音がほとんど常に「○○の音」であるのに、視た瞬間に、「トラックの姿」「トラックの形」ではなく「トラックそのもの」だと思うというのはどういうことなのだろうか。「『姿』を見た」という言い方がされることもあるが、それはむしろ、「ような気がする」ような、むしろ視たという経験が疑わしいときのようにも思われる。確かにあの人の姿を見たような気がするのだけれど、とか。聴くことのなかで、「○○の」という形で音と意味が結びつけられている以上に、視るということのなかでは姿かたちと意味とが、わかちがたく一体化されてしまっているようだ。とらえられた姿かたちが、意味そのものであるとでもいうように。
 そして多くの場合、その意味は問われることもない。一瞥のなかで、既知のもの、意味のあるものとされ、通り過ぎられていく。ほとんどの場合、本として本を視、家として家を、猫として猫を視る。そして全てが既知であるような世界で安穏としている。どんなに驚くべき風景も、モニターの中の出来事であれば、とりあえずは知っているものとして済ますことができる。そしてその「既知であること」を土台に、他の知覚が組み立てられる。正体不明の音は、それに基づいて「○○の音」になる。そこになんの疑いも差し挟まないのが、普段の僕らなのだ。それはただの習慣なのだが。
 音を数えるという経験は、視ることを通して組み立ててしまっている、世界について約束事を露わにしてしまう。音を数えるようにして、世界を視るというのはどういうことなのか。そんなことを考えながら、アスファルトに落ちる影と陽の境目の細部を視たり、吹き渡る風に揺れる梢とその向こう側の空を視ているうちに、名づけられていないものが、すでにそこにあることに気づく。そしてそれが視野全体の向こう側にひろがっていくのを感じる。
 事物のかすかなうなりのようなもの、波のようなもの、遠いもの。その顕れに立ち会いたい。そしてそれを言葉に写し取ってきたいと思うのだ。


初出:「tab」第1号(2006年11月発行)
[PR]
by kotoba1e | 2007-01-10 21:03 | 自然と景色