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詩と謎

 詩を書くようになって思うようになったのは、詩というのは「世界の中に謎を見つけ」て、決して言葉の形をしてはいないその謎を、「言葉の構造に移し替える」ものなのではないか、ということだった。謎を解いてしまうのではなく、謎を謎としてプレパラートにするというか、見えるものに変換するというか、そういうイメージ。そしてそこには、唯一の表現を求める「正確さ」が必要なのだ。そして、まったく捏造的でないはずの写生文や写生句に、いいようのない魔術的な吸引力を感じるのは、それらの中に言葉とイメージを繋ぐ不思議がそのままに捉えられているからなのだと合点したのだった。
 謎にアクセスするにはどうしたらよいのか。まず、すべてが自明だと思っている人には、詩は存在しないだろう。そこには謎というものがないのだから。こういう人にあっては、自分が知ることができる限界というものは、まったく意識されない。メディアや周りの人やさまざまな学説が言うように世界というものは出来ている、それで説明できる、と納得している人には、詩というものは顕われないのだと思う。世界を自分の目で眺める、ということはここでは拒否されてしまっている。そしてこの拒否こそ、この世間で生産的に生きようとするときに強いられるものなのだ。
 ものすごく遠くまで見える目、限界の向こう側にいたる知覚を持っている人は、まるで自明と思われるものに埋め尽くされた社会的な関係のただ中にいながら、無限遠の寒いところに分布している謎をつかむことができる。谷川俊太郎は、たぶんそういう人である。タイプは違うが、ランボオもそんな人なのではないか。うまれつきの詩人ということである。
 もう一種類の人は、限界を近くに呼び寄せた人である。何らかの事情で、世界を縮めてしまった経験のある人は、暮らしの中で普通に謎を見てしまう。彼らは、抗うことも解釈することもできない何ものが、日常の中にが顕現してしまうことを知っている。限界を呼び寄せ、その皮膜の向こう側に触れてしまった人、見知らぬもので出来ている世界を、生きてしまったことのある人。こういう人はけっこういると思う。彼らの中で、この謎を正確に言葉にすることが、その人にとってかけがえのないものであるというような人がいたとしたら、その人は詩人になるのだと思う。詩人として生まれなおすのだと思う。
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by kotoba1e | 2006-07-31 22:56 | ことばと表現