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鳥たち

 琵琶湖博物館のレストランは、2階まで吹き抜けた大きな窓が琵琶湖の方に向かっていて、気持ちがいい。明るくて大きな風景を見ながら、ブラックバス丼を食べた。
 晴れたり雪が舞ったりという天気だったが、丼を食べている間は、湖上には青空。でもどういう訳か、対岸そのものである大きな比叡山は雲に覆われてしまって見えない。いや、雲というより雪なのだと思った。湖面への光の当たり方からして、少々現実離れした夢のような昼である。しかし、琵琶湖というのは、そういう夢のような光を見せる水面なのだ。

 気がつくと、鳶が二羽並んで飛んでいた。つかずはなれずといった感じで、風を受けて浮かんでいる。ほとんど静止しているようでいながら、少しずつ青空を滑っている。そして、微妙に近づいたり、離れあったりしている。
 時折、一方が突然羽根の先を翻すと、失速するような形でもう一羽に落ちかかる。襲われた方も少し羽を揺らしたり、ふっと身を裏返したりする。その時だけ、時間の流れ方が変わるようだ。鋭角的なものが、二、三、空に置かれるような気がする。
 だが、争いがそのまま激しくなることはない。数秒後には、二羽とも淡々と並んで浮かんでいる。そんなことが、決まっていそうでおそらくはそうでもないような間隔で繰り返される。たぶん遊んでいるのだろう。
 ときどき、鴉が混じったりすることもあった。その時ばかりは、多少全体の流れが早く、毛羽立ったものになる。そんな時も含めて、その全体は青空を背にした音楽のようだった。

 彼らは何を感じているのか。地平線に寄せる気持ちは、われわれ地表に這いつくばっている生き物とは全然違うのだろう。むしろ、羽に当たる風の塊の方が、親しく信頼できるものなのかもしれない。
 そして、時計も予定表も持たない生き物には、時は常に現在なのだろう。密実な現在のまま、経験されていくのだろう。
 青い空を背にして、静止したりおもむろに翻ったりする鳥の影とその細部に目を奪われている間だけは、そんな時間を彼らと共有したように思った。そして、そんな時間をどれだけもてるかが、多分大事なのだと思った。
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by kotoba1e | 2006-03-31 22:44 | 自然と景色

ミッドナイトプレスの志

 ミッドナイトプレスの休刊に続き、池袋の「ぽえむぱろうる」が閉店だという。僕は関西にいるので、その店に行く機会はないのだけれど、そういう店があるということは、頼もしいことだと思っていた。なくなるということは、すごく寂しいことであると思う。

 「詩」を書く人は増えているのだという。「現代詩フォーラム」などを見ても、毎日毎日、とてつもない数の詩(?)が投稿されている。
 一方で、詩誌は全然売れないらしい。去年は「詩学」が一時休刊となり、その後は隔月ペースとなっているというし、今回はミッドナイトプレスが休刊だ。
 2月の「言鳴」のあと、窪ワタルさんから聞いたのだけれど、「詩学」に投稿している人の数の方が、「詩学」を買っている人よりも遥かに多いのだそうだ。要は、投稿し、入選し、掲載されることこそ、多くの書き手の関心事なのである。記事はどうでもよくなってしまっているのだ。おまけを目当てに買われる捨てられるチョコレートのようなものである。

 何故詩誌が読まれないのか。それは記事が読み手や書き手の関心からずれているということにつきる。しかし、記事のなにがどうずれているかは、少々難しい問題を含んでいるように思う。
 ひとつには、詩誌の記事自体が過剰にマニアックなもの、あるいは党派的なものになっていっているという可能性もある。「むずかしすぎるよ」という人がいる。「あれは閉じている」という人もいる。それが正しいかどうかは判らないが、専門化、高度化が進んだ詩や詩論は、生活の中にこそ詩があると考える人たちには、受け入れ難いものがあるだろう。特に現代詩手帖については、最もメジャーな総合詩誌でありながら(「だからこそ」かもしれないが)、「難しい」「選が偏っている」等の批判がなされることが多いようだ。ひとつひとつの批判の当否は別として、少なくとも、「現代詩」を包含するような広がりのなかで多様な詩を求める声に、応えることができていないのは事実だと思う。だがこうした問題は、編集側の問題意識によって対応できる問題だ。

 もうひとつの可能性は、もっと深刻なものだ。読者である書き手の方が、ことばへ尊敬や誠実な興味を失っているという可能性である。「詩というのは、素直な感情の発露であって、自己自身や社会について深く知ったり学んだりする事とのは無関係である。であるから、言葉に凝る必要などないのであり、方法論的な意識などというものは持つだけ無駄だ」、という考え方を持っている人が、今の書き手にはかなり多いように思われる。インターネット上で無差別に公開されるネット詩の過半は、おそらくそうした地点から書かれている。そういう水準のものが、ミッドナイトプレス「私の詩」掲示板でも散見されるようになった。
 要約すれば「馬鹿でもいい」という理屈である。そこで素直な感情のように語られるものは、どこかで聞いたようなものでしかなく、その人ならではものなど、そこにはない。そうしたものは、ことばを経ての反省によってしかもたらされないからだ。手前で思考停止してしまった人の言葉は、誰かが工場で生産した言葉に乗っ取られてしまう。そして、どこかで見たような、つくりものの自己像ばかりが、自己愛のオブラートにくるまれて、大量に吐き出されてくることになるのだ。
 そうした書き手は、先達や他者に学ぼうとはしない。だから詩論は読まない。少しでも理解に苦労する詩は読まない。簡単に理解でき、仮託できるものだけを、読むのである。
 そして他者による承認だけは欲しいから、投稿はする。その選者への共感とかは基本的にどうでもいいのである。採用してもらえさえすれば、「詩が掲載された」ことになり、そのことこそが重要だからである。

 そういう「詩」が、ネット上を埋め尽くしつつある。詩誌の投稿欄にも増えつつあるらしい。
 この増加は間違いなく一つの現象であり、言葉での表現への欲求を持つ層が増えていることの現れには間違いない。だが、こうした書き手が、他者の言葉に自分を開き、詩にまつわるさまざまなテキストを読むようにならない限り、書き手の数だけ詩誌が売れるという状況にはならないだろう。しかしこれは、ひとりひとりの内心のありように関わる問題であるから、対策を講じて云々という類のものではない。だから第一の問題より深刻なのである。

 論旨からずれるが付け加える。ここまで「バカ詩」について述べてきたが、「バカがバカな詩を書くのは当然である、優秀な書き手が優秀な作品を生み出し続けているのだからいいではないか」、というお芸術派からの反論が、もう聞こえているような気がする。そうではない。
 市民といっていいか大衆といっていいか判らないが、市井の人々の間に詩精神が共有されていることが、多分ものすごく重要なのだ。佳きことばのありよう、というものを皆が知っていること、あるいはそういうありように向けてこころが開かれているということ。そしてそういう人々の精神の上に詩が浮かべられるのでなければ、それはおそらく詩とはいえない。どの時代、どの文化においても、うたというものはそのように、人々の間にあって、人々を覚醒させたり慰めたりしてきたのではなかったか。ここに、詩の遍在性とでもいうべき一つの本質がある。
 この部分に注目せずに、エリートの内部に閉じこもるのなら、今も間違いなく進行している、人々からの詩精神の収奪に、間接的に加担することになるのだ。そして、メジャーな詩誌は、この失策を犯しているのだと思う。
 「『ポエム』書くイタいバカ」を差別的に笑うのはたやすい。本文中でもそうした層に対する非難ともとれることを書いた。しかし、そうした層がはっきりと眼に見える形で現れてきたのは、何かによって「言葉」が奪われつつあるからなのだと思う。それは先に書いたような「詩精神」とも言えるだろうし、「想像力」とも言えるだろう。自分で言葉を受け止めて、考えてみようとする余裕なのかもしれない。そういうものが、どんどん民衆の間から奪われて行って、プラスチック製のものや電気仕掛けのものに置換されつつある。これは、詩だけでなく、多分みんなの不幸なのだ。そして、詩に関わるものは、この流れに抗する言葉と、それを響きあわせる場を構想すべきなのだ。

 ミッドナイトプレスが、現代的でありながら現代詩を超える「詩」の広がりを見ようとしていたのは確かだ。それは一貫した態度として、誌面に表現されていたと思う。詩についての本質的な議論を、平易で親密な言葉で続けていたと思う。第一の問題、つまりメディア側の自閉性に対して極めて意識的だったのだ。
 第二の問題、つまり社会における詩精神の奪われに抗するのは、詩を読むものの内部でしか読まれないメディアには荷が重い仕事だ。社会全体の課題だからだ。でも、何らかのメディアを介してしか、そうした問題意識は共有されないし、その恢復への糸口を見つけられないものであるのもまた確かだ。他のところにも書いたけれど、ミッドナイトプレスは、ネットやその周辺に現れる大衆的な詩表現に対しては、スタンスを徐々に変化させてきたと思う。特に2005年度には、大きな変化があったように思う。それは一旦大衆的・インターネット的なものから退却して、詩そのものの広がりに戻ろうとする運動だったように見える。2006年の31以降は、そこからの再出発になるはずだったように思う。この先に何が構想されるべきか。

 ミッドナイトプレスを記念するアンソロジーを編んではどうかという議論も、同社の掲示板で見られる。それは結構なことだと思うが、ミッドナイトプレスが拓こうとしていたものを、深く訪ね、明らかにするような編集コンセプトを持ったものであってほしい。現代性と遍在性を同時に問おうとした、ミッドナイトプレスの志こそがその中で顧みられ、表現されるもの、常連投稿者による仲良し詩集を超えるものであってほしいと思う。
 ミッドナイトプレスの突然の切断は、その志のありかを、読み手、書き手に問うている。そのことについて、まず静かに考えたいと思った。
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by kotoba1e | 2006-03-15 11:25 | ことばと表現

さようならmidnight press

 詩誌midnight pressが休刊するらしいということを、石川和広さんのブログで知った。今はmidnight pressの掲示板にも、休刊を惜しむ声が続々と寄せられているようだ。

 現代詩を遠ざけてきた僕が、詩というものに気持ちを開くことができたのも、この雑誌との出会いがきっかけだった。現代とともにあり、しかも人々に対し開かれている言葉。間違いなく詩であり、かつマニアックな狭さを超えて行くもの。そういうものを誠実に追おうとした詩誌だったと思う。
 晴天の霹靂で驚いたり惜しんだりではあるが、この雑誌がどっちにいくのかな、ということは気になってはいた。2005年末の30号で一区切り、というようなことが、編集後記にもwebサイトにも載っていたからだ。

 以前から、midnight pressは詩の裾野に関心を持っていたようだ。川崎洋さん(今は松下育男さんが担当されている)と清水哲男さんの「詩の教室」の暖かさ、柔らかさも独特のものだったし、平居謙さんが若い市井の詩人を紹介して行く「ごきげんポエムに出会いたい」なんていうページもあった。
 また、CD-ROMといった新しいメディアの登場やインターネットの普及と、新しい詩の運動にも注目していたのだと思う。かつてはCD-ROM詩集なども出していたようだし、出版社のwebサイトの投稿掲示板「私の詩」を誌面に取り上げる、「poem on-line」というページも持っていた。いわゆるネット詩の特集を組んだり、有名サイトであるpoeniqueのいとうさんや現代詩フォーラムの片野晃司さんを招いた座談を収録したりもしていた。
 現代詩と、それと関わりうる多様な層とを視野に入れた編集を行っていたと思う。この開かれた感じ、「広さ」は、midnight pressの大きな特徴だったと思う。
 もう一つの大きな特徴は、「狭さ」だった。寄稿している詩人たちの息づかいが感じられるような、そういう親密な魅力があった。一流の詩人たちが、他誌より少し、身近に感じられるような、それは幻想なのかもしれないけれど、そんな感じがしたのだった。
 この「広さ」と「狭さ」が、midnight pressの他にない魅力を形作っていたように思える。

 だが、この1年半くらいの間に、その「広さ」を支えていたいろいろなものが変わったりなくなっていったりした。いつだったか忘れたけれど、midnight pressのwebサイトから、リンクページがなくなった。運営も大変だったのだと思うが、質の低い自ページへのリンクを一方的に請う人がいたりして、対処に困ったのではないかと、勝手に推測している。ネット上での相互的な関わりの困難さが露出し始めていたのだと思う。確か28〜29号あたりで、「ごきげんpoemに出会いたい」が終了、「poem on-line」が打ち切られた。このあたりで、mpはもしかしたら、「裾野」との関わりについて、仕切り直しを考えたのかもしれないと思った。そう思っていたときに、30号での一段落宣言があり、これからの大きな変化が予感されたのだった。

 2006年に入ってからのmpのサイト上では、「現代詩も、“ワン・オブ・詩”」、「2006年は、自由にーー」などといった、新しい展望を感じさせるタームが見られた。社会的な「裾野」とはまた違った、詩そのものの「広がり」「自由」の方に、きっと向かっていくのだな、と思った。
 しかし、31号を残して、midnight pressは休刊となった。たぶんその問いは、読者を含めmpに縁ある人々全員の宿題となったのだと思う。



 最後に個人的な思いを付け加えておくことにする。
 1年ちょっと前に詩らしきものを書き始めて、最初に発表したのがmidnight pressの「私の詩」だった。それから、そこにはできるたびに投稿し続けた。一度「poem on-line」で取り上げてもらえたこともあって、その時は嬉しかった。また、このサイトを通じて、ふくだわらまんじゅうろうさん、焼石二水さんを始めとする、さまざまな人たちとの交流が生まれ、いろんなことを学んだと思う。こうした場で遊ばせてもらったことについては、深く感謝したい。

 出版社としての活動とサイト運営は続けられるとのこと。気長に復刊を待ちたいと思います。ありがとう。お疲れさまでした。
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by kotoba1e | 2006-03-05 20:30 | ことばと表現