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貧しさとしてのR&R 貧しさとしての谷川

 蕃さんのテキストと北川透「谷川俊太郎の世界」(思潮社)を読みながら、谷川俊太郎の「異様な貧しさ」について考えていた時、似たような貧しさをもつものとして、R&Rのことを思い出した。

 R&Rは貧しい音楽である。というと怒る人もいるかもしれない。黒人音楽の一連の流れの中で捉えられるR&Rは、豊かさそのものであるようにも見える。
 かつて、R&Rにおけるニューヨーク・スクールの一大巨頭であったE Street Bandの名サキソホン奏者、クラレンス・クレモンズ氏は、ロッキング・オン誌に掲載されたインタビューの中でこんなことを言っていた。「ロックンロールとリズム&ブルースとは本来異なるものではない。この区分はレコード会社と後世の歴史家によって捏造されたものである」と。
 それは判る。しかしそれでもなお、R&RとR&Bは異なるものだという確信が僕にはある。切断面がどこかにある。
 iPodにシャッフル再生させていて、Marvin Gayの直後にThe Beatlesがかかったとする。その落差には、だれも愕然とするはずだ。誰もが現代ロック音楽の豊かさそのものだと思おうとしているThe Beatlesの音楽が、いかに伸びを欠いた、身体の固いものであるか、密実さを欠いた、空虚なものであるかが、その瞬間に露見する。しかしこのことはThe Beatlesの名誉を傷つけるものでは全くない。この貧しさこそが、「何かを明らかにする」ものであることを僕らは直観的に知っているし、それが例えばThe Sex Pistolsや、今のThe Strokesの純粋R&Rに繋がっていく、R&Rの本質だということにも、直観的に気づいているからだ。

 リズムの伸びやかさ、バネといった生き生きとした融通無礙さを失ったら、音楽はファンクでもR&Bでもなくなってしまうだろう。しかし、こうしたものが失われるに従って、R&Rはエッジを立てて訴求してくる。またこうしたバイタリティに寄りかかっている音楽はR&Rを自称していてもは、退屈で守旧的なものに留まる。それは豊かな20世紀ポピュラー音楽の地層に抱かれた、退嬰的な歓びに過ぎない。しかし、そこから離れようとするとき、歴史と共同体の豊かさから分かれて、そのぎすぎすした姿をさらしはじめる時、R&Rの貧しい尊さが顕われるように思う。生の躍動から一度離れること、一旦音楽の死に触れることが、R&Rの要件なのだ。優れたR&Rが常に痛々しいのは、必然なのである。

 R&Rはつめたい容器である。そして優れたR&R音楽家は、その0度を知っている。その瀕死の貧しさが、そこに満たされる生き生きとしたものを一層賦活するのだ。一度死んだR&Rに黒人音楽が再度結合される時、The Rolling Stonesの熱狂が生まれる。伝統のなかに埋もれているものが、R&Rの貧しさによって改めて見いだされ、大衆に気前よく振る舞われる。これはR&Bの伝統の内部からは生まれ得ないものなのだ。

 「語るべき内実」を持たないが故に、その形式が露出せざるを得ない。同時に、その形式がさまざまなもののユニークさ、豊かさを顕在化させる。白人が発明したR&Rとはそういうものだったと思う。

 何でこんなことを考えたかと言えば、谷川詩の貧しさというのも、そういう構造をもつもののように思われたからなのだ。谷川の詩は一見したところひとくくりにはできない多様さをもつ。しかし、どれもある一定のつめたさを持っている。言葉少なな「タラマイカ偽書残闕」にしても、言葉が横溢している「(何処)」にしても、初期の「二十億光年の孤独」にしても同様のつめたさがある。
 谷川は、「語るべきものを持たない」人であるのに違いない。個人の経験だとか、思想とか、根拠とか、感受性とか、暴力とか、反秩序だとかといったことについて、呑みながら熱っぽく語り続けるような、そういうハッピーさとは全く関係がないように見える。「語るべきものを持たない」人が、それでもなお何かを言おうとするとき、多分その人の生の形式がそのまま露呈せざるを得ないのだ。谷川の詩には、そういう谷川の認識の構造、生の構造がそのまま刻印されている。表層的な多様性の下にあるのは、喩のひだひだや装われた豊かさを一切失った、「一つの眼」としての形式である。ここに、喩を反響させあうことで「何かを語ろう」としてきた現代詩との大きな離隔が生まれている。これはテーマの問題というよりは、むしろ主体の構造の問題というべきものだ。またここに、喩を反響させあわせないことによる一義性があり、それは谷川詩のポピュラリティとも結びついているのだ。

 谷川は無限遠に設置された単眼なのだ。ここでは二眼による測距は意味をなさない。この視野のなかでは、性も事物も言語も同じ地平にあるものとして掴み直される。その視線のありようが、驚きとともにわれわれをうつ。
 多分誰もが言っていることだと思うが、谷川の眼は二十億光年先の死の暗がりに据え付けられているのだ。そしてそれはR&Rが常に瀕死であることと、現代のなかで重なりあっているように、僕には見えるのだった。
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by kotoba1e | 2006-02-21 13:47 | ことばと表現

The Blue Stones

 蕃さん(水島英己さん)の「The Blue Stones」(樹が陣営22号,2001)で言及されていた同じタイトルの詩が収録されている、Raymond Carverの作品集「Fires」を入手した。早速「The Blue Stones」から読んでいる。
 蕃さんの作品において、冒頭の福間健二からとられたエピグラフ
「青い色が泣いている/灰色がかった青でも/青は青であるといいたいのだ」
がその基調を決してしまっているようにも見えるが、このCarverの作品においても、フローベールからの
「If I call stones blue it is because /blue is the precise word, believe me」
が全てを語っているように見える。
 この作品で「きみ」と呼びかけられているのは、普通に読めばボヴァリー夫人のラヴ・シーンを書きながら自慰にふけるフローベールである。「これは愛とはまったく関係がない」
 愛とは関係なく、性そのものを書こうしたフローベールが、ゴンクールと夜の浜辺を歩いたときに拾い上げた、月明かりに照らされた青い石は、翌朝もなお青いのだった。このあたりの潮がわたる夜の浜の石をめぐるイメージは美しい。
 この作品での青は変わらない青であり、フローベールの本質を看取する目や筆法と結びつけられているような印象を受ける。
 蕃さんの「The Blue Stones」ではむしろ、福間のエピグラフにも見えるように、そこからの揺らぎとそこに留まろうとする思いとのせめぎ合いが主題化されているようだ。そして青には「自ら光りながら、物と事をつらぬく無垢」、青春性が含意されている。
 自慰のモチーフ、「信じてください」の起源、「友人」など、Carverの方を読んで発見できたことがたくさんある。これを読んだ事で、また新しい読みが生まれそうである。

 蕃さんのこの詩は、福間健二とも、カーヴァーとも、フローベールとも、伊藤静雄とも繋がっている。そしてそれぞれのテキストへの経路は、一律ではなく多様な方法が企まれている。
 福間に対してはエピグラフで、カーヴァーに対してはタイトルの共有と、詩の中でのトートロジカルな言及によって、フローベールに対してはカーヴァー経由で、伊東静雄に対しては断片化された引用によって。このことによって、この作品は、外部のテキストに対して開かれた風通しの良いものになっていると思う。
 今並行して、村野四郎や石原吉郎を読んでいるが、これらの作品には、作品はいかなるコンテクストにも依拠せずに、自律して存在しうるべきだ、という強固なコンセプトを感じる。堅固だが、ある種の読み疲れも感じる。この自律性に立ち、共同的なコードを拒否する性質は、絵画から建築、文学などジャンルを貫くモダニズムの特徴といえるものだ。ここには、外部のテキストと関わりながら存在する、というあり方はありえなかった。
 蕃さん版「The Blue Stones」に見る、テキスト同士がネットワークを作り、それぞれの間で意味が乱反射しあうようなイメージというのは、やはり多分にポストモダン的なものなのだと思う。
 引用も一律で固いものになってしまうと、単に衒学的になったり、読者を遠ざけたりという悪弊が生じるが、うまく活かせば読者をより広い場所へ連れて行ってくれる。
 石原吉郎を読んでいるときに、辻征夫さんの詩で見慣れていた「アレクサンドル・セルゲーエウィチ」の名の行が出てきてぎょっとした。この新鮮さも、辻さんの詩が開いてくれた経路が導いた出会いだったのだと思う。
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by kotoba1e | 2006-02-07 09:37 | ことばと表現