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愛と規範

 小さな子どもや女の子を可愛いと思うこと自体は、おかしくもなんともない。
 可愛いと思い、その子達がすくすくと正しく育つように望む、というのが、まあまともな人たちの思いであろう。
 一方には、可愛いと思って、それで陵辱して殺してしまうという連中がいるわけである。これは普通の親、普通の人々には理解し難いものである。こういう理解できない、恐ろしいものを排除してしまいたい、というのもまたまともな人たちが思うことである。
 私自身、そのまともな方に属している。それはとりあえず間違いないことだと思われる。そうした犯罪について強い憤りをおぼえるし、そうした犯罪を犯したものについては、厳しい処罰を望むものである。

 ただ、この2者には、共通するものもあるように思う。
 愛したものに対して次にやってくるのは、自分の側に引き寄せたいという思いである。なんだ当然じゃないかと言われるだろうが、まあそうである。自分の側に引き寄せる、ということは、もう少し言えば自分の世界に引き込むということである。さらにもうちょっと言えば、自分達が属する規範に従うよう馴致、教化することである。
 良き世界を信じる良き人たちは、その世界を成り立たせているさまざまな仕組みを、子ども達に教えようとする。それは科学であり、法であり、道徳である。すくすくと育ってほしい、という望みは、そういう教化の欲望でもある。
 一方で、そうした良き世界を信じない人は、愛するものにどう向かうか。例えば暴力と快楽と死がその人の世界の規範であるならば、その規範に彼女/彼を従わせようとするのだろう。彼らなりの、強い教化の欲望のもとに。そしてそれは、陵辱と殺人という姿で顕現してしまうのだ。
 愛するものを、己の世界の規範に従うべく馴致、教化したい、という欲望は、この全く相反する2者に、共通にみられるもののように思う。

 良き世界を信じ続けることは、難しい。それはすでに、この地上にはないようにさえ思われる。良き世界の側にあろうとする人たちでさえ、その中の良心的な人たちであればなおのこと、その不在を強く感じているに違いない。
 そして、そこから切り離されそれを恨むものはどんどん増えていっているのだろう。どうしようもないところに吹き寄せられて、そこで淫らな熱を帯びていっている人々というのが、確かにいるのだ。
 そして、良き世界(のまぼろし?)に踏みとどまろうとする人たちは、こうした人たちと共感的であることを恐れるようになった。悪は外部にあると思い込みたいから。その層の者たちも同じ人間であるなどとは、もう思わないのだ。それはすでに異類であり、嫌悪と恐怖の対象となっていく。ここから新しい差別が、「やむを得ない」ものとして始まっていくのだろう。良き世界の実現のために、排他性の高い「共同体」を目指すだろう。これは多分良き世界の捏造に終わってしまうのだろうが。安全・安心のテーマパークとしての、街。そして共同体の輪郭が際立つにつれ、余白に追い込まれるものもまた、ぎりぎりとした姿を一層露にしていくだろう。

 僕自身、子どもを陵辱し殺す連中との間に、いかなる言葉も相互理解も欲しくもないと、今は思う。そして子どもの未来を奪う者は、厳罰に処すべきだと思う。
 こんな言葉が僕のどこから出てくるかと言えば、それは身も蓋もない本心ではあるのだが、その響きの中には、僕自身が安全な世界の側に身を寄せたい、そちらの仲間に入れてほしいという、卑しい同調の媚びが含まれていることを、自分自身感じてしまってはいる。「まとも」なんて言葉を恥ずかしげもなく使って。
 こいつらを事後的にひとりひとり潰していっても、宅間や井上のような、絶望的な確信をもってことに及ぶ連中は、どんどん出てくるだろう。
 世界を信じようと思える条件について考えなくてはならないのだろうと思う。しかし既にない世界をめぐって、何を、どのように?
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by kotoba1e | 2005-12-16 09:36 | もろもろ感想