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地形を構想する

 今日は下の子を自転車の後ろに乗っけて、梅小路公園という大きな公園までいった。京都に通じている人でないと判りにくいかもしれないが、左京区のさいはてから京都駅のそばまでだから、それなりの距離ではある。
 子どもがどういう訳か「いのちの森」に行きたい、というのでお金を払って入場する。これは以前も書いたけれど、本格的なビオトープである。これと橋で繋げられた「朱雀の庭」というのがあって、こっちは徹底的に作り込まれた日本庭園であって、その対比が興味深い。
 庭園の滝石組の下の方へ、飛び跳ねながら降りていく子どものあとを歩きながら、そういえば今日は土曜日であった、土の事を考える日だ、ということを思い出していた。そして庭園を歩きながら、この造園という行為が、まさに土との対話なのだということを思った。

 鏡のような水面に迫り、その姿を映り込ませる築山。そのそばを抜けていく道は、刻々と景色を変えてゆく。歩くのは簡単だけれど、この全てを構想する作庭というのは、一体なんということだろう。造園というと、木を植えること、植木屋さんの仕事という印象が強いが、それ以前に地形を作り出すこと、歩く人の知覚と行動を読み予測して、地面そのものをレイアウトしていくことなのだ。
 木を植えるということも、まず土との対話、土づくりを経なくてはならない。また地形を構想するということは、水の流れ、水面のありかたを考えることと切り離せるものではない。ここで、土と木、水は一つのものとして結びつく。
 造園家が直接操作するのは、そうした「もの」だけれど、庭にあってわれわれに感じられるのはそうしたものだけではないだろう。季節によってありようを変える光や風、といったものが、地形や植栽、水面といった装置を媒介にして、美しく顕在化される。こういう不可視のものを、環境の中で知覚可能にすること、これが造園の本質なのだろう。ここで日月といった天体や、火といったものが庭園のなかに現れてくる。
 土から出発して、見えないものに到る、というのが造園家の思考なのだと思う。一週間の要素のうち、 一週間のうち、「金」だけが見当たらない(作庭には金がかかる、ということはおいといて...)。「金の知覚」とはどういうものなのだろうか?庭園という小宇宙のなかに、それは本当は現れているのに違いない。僕が発見できていないのだろう。

 梅小路公園の日本庭園は、京都の造園業組合ががんばっただけあって、庭園らしいところはよく作り込まれている。ただ、モダンに作ろうとしたところ、例えば金属材料を用いた舞台や、直線を強調したウッドデッキ、平滑な断面を持たされた景石などは、むしろ洗練を欠き破綻しているように見える。そういう俗っぽい小細工が多く集まっているあたりはちょっと見られない感じだ。この庭園のほんとうの美質は、京の七野を表現したというあたりの、築山と流れの相互に戯れあうようなコンポジションに代表される、鷹揚な地形処理にあるのではないかと思った。そして、この地形的センスこそ、これからの街や村を美しくしていくための、もっとも大事なものなのではないかと思った。

 ということで、やっぱり詩にはならなかったけど、一応土について考えた土曜日ではあった。





Last updated October 2, 2005 00:25
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by kotoba1e | 2005-10-02 00:25 | まち・地域・場所