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里のいきものたち

 下の子と、「滋賀県立朽木いきものふれあいの里」に行ってきた。京都の市街地から1時間半くらいだったか。走っていて気持ちのよい道で、ドライブとしてもなかなか。人気のある施設らしく、センター前の芝生はけっこう賑わっていた。
 里山に入っていくと、人影は急にまばらになる。しばらく行くと、林のなかのちょっとしたくぼみが、明るい池になっていた。誰もいない。「モリアオガエルの池」という札が立っていたが、それらしい姿はなかった。眼を凝らすと、泥と同じ色をした魚が、底に腹を接するようにしているのが見えた。ヨシノボリの仲間だろうか。指先を澄み渡った水面に浸けると、確かめるように寄ってきて、食べ物でないことが判るや、泥煙を巻き起こして逃げ去るのだった。
 明るい黄土色の底に黒いものが落ちているのは、その大半が枯れ枝やまつぼっくりだが、中にはイモリもいる。時々、その腹の赤い文様が視野の片隅に翻る。眼に入る範囲だけでも7匹くらいはいた。底でまどろんでいる者。水面あたりで芒としている者。なんだか中途半端に斜めになって揺れている者。愛嬌のある姿とのんびりした佇まいに子どもは大喜びである。熱心にその姿を帳面に写していた。イモリはといえば、ゆらゆらと、桟橋から水面を覗き込んでいる子どもの眼の直ぐ下に来ても、暇そうに手足を動かすくらいで、動じる様子はない。
 イモリは両生類だから、背骨と手足のある生き物としては、かなり初期形というか大先輩である。その後出てきた凝り過ぎの生き物に比べると、なにか祖形がむき出しになっているような、生き物相手に変な言い方だけれど古拙な味わいすら感じられるような気がした。手足の、素直に伸びた指が美しく思われた。

 生命というものは、こんなところでこんなふうにしてもいるのだ、という、当然過ぎることに改めて思い至る。変に擬人化するのは嫌だけれど、人間だって変に賢しらだってはいるものの、一脊椎動物種に過ぎないではないか。一個の生を生きる生物であることには変わりがない。などと、だんだん抹香臭い気分にもなってくるのだった。この愛らしい両生類の眼には、世界はどのように映っているのか。彼らはどのような時間を生きているのか。桟橋に腹這いになってそんなことを考えていると、眼球の下半分が、池そのものになってくるように思われた。
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by kotoba1e | 2005-09-20 00:39 | 自然と景色

Two billion Light-Years of Solitude

 集英社文庫版「谷川俊太郎詩選集1〜3」を読む。
 谷川俊太郎といえば、多分一般にもっともよく知られた現代詩人だ。うちにも子どもの本棚に昔から「ことばあそびうた」があった。それだけでなんとなくイメージができてしまっていて、これまでちゃんとこの人の作品を読んだことがなかった。けっこうそういう人、いるのではないだろうか。
 半世紀におよぶ詩業を通覧するこのアンソロジーを読んで、だいぶ印象が変わった。死と性の匂いが濃厚なことにまず驚いたが、なによりもその孤独な視線と佇まいに打たれた。つぎつぎに新しい書き方に挑戦して、たえずその詩の姿を変えてきた詩人というイメージもあったのだが、その他者や世界との距離感、孤独だけはぶれることなく一貫している。
 詩人はこの距離をつくりだしてしまう自分の眼と、延々と苦闘してきたように見える。それは谷川詩の成立に不可欠のものであると同時に、それを限界づけるものであった。そしてなにより、人間谷川俊太郎に、他者との関わりにおいて苦をも与えるものだったようだ。
 この「非人情」「デタッチメント」を安定した立ち位置としてしまうのではなく、それと戦い試しながら、受け入れつきあってきたのだということが、このアンソロジーからくっきりと浮かび上がってくる。このダイナミックな一貫性が、この詩人を信用するに足る存在にしていると思った。
 改めて読んでみると、この人の詩はびっくりするほど映像を喚起しない。描写に淫するということを、あえて禁じてきたのではないかと思えるほどだ。個人的経験を通じて描かれるものもあるのだけれど、どこかで空や大地、死や性などと同じレベルの一般性を持たせられてしまう。事物の「かたち」ではなく、「概念」を相手にしているようにみえる(このことについては、ねじめ正一も指摘していたような気がする)。自然のようなものに身をまかせてしまうということがない。疲れているようにも見えるが、常に強靭な理性(習い性というものなのかもしれないけれど)が、(その放棄という選択も含めて)全体をコントロールしている。これが谷川詩に特別な性格を与えていると思った。
 処女作にその作家の全てが現れるということはよく言われる。1952年に21歳で刊行した処女詩集のタイトルは「二十億光年の孤独」だった。この孤独は50年かそこいらの歳月で埋められるようなものでは、もとよりなかったのだろう。
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by kotoba1e | 2005-09-18 00:02 | ことばと表現

なつやすみ読書感想文:萩原健次郎「Jポップは、近代詩を歌う。」を読んで

 現代京都を代表する詩人である萩原健次郎さんが、Jポップの歌詞について論じているのをみつけた。
 いろいろ微妙だったり複雑だったりする感懐が語られはするが、基本的にはこの人の立場は気持ちがよいほどにはっきりしている。
 まず、前衛が無前提的に価値あることとされる(この「前衛への愛」は、それを共有しない「大衆」にとっては理解し難いものではある)。ここで、GLAYの恐るべき近代性(というより「前現代性」とでもいうべきか?)が語られたりはするが、「近代的なもの」の蔓延についての考察はあまり展開しない。結局この近代・現代まぜまぜの状況の中で、現代詩側はよき「前衛性」提示していくべきだし、近代詩においてもそれを改めて見つけ出していこう、という結論になっている。テーマであったJポップがここでは忘れられてしまっているのはご愛嬌というべきだろう。
 注目したいのは、近代詩(どろどろ浪漫主義)から現代詩(意義ある前衛)へ進化が、ここでは素朴に信じられているという点だ。「近代」という時代の次に「現代」という時代が来る、という年表的歴史理解がここには見られる。そして、そう目盛られた時間軸の上で、今は「現代」であるはずなのに、大衆の感性は「近代」のものだ、という感慨が語られる。この矛盾は何なのか?大衆が遅れているのか、現代詩が進みすぎたのか?そしてその問題については十分な考察が行われないまま文章は終わる。

 おそらく、「近代」の次に「現代」が来る、そういう風に歴史は進む、という理解がたぶん違うんじゃないかと思うのだ。「中世」とか「近代」とかの所謂歴史上の時代区分があるけれど、ああいうのはそれぞれの「はじまり」「おわり」がわりとはっきりしている。それに比べて「現代」はどうだろう。まず「終わり」が未定である。これはことの性質上仕方がない。では「はじまり」はどうか。僕が小学生のときは、「戦後」は紛れもなく「現代」だったけれど、今はもう違うだろう。それは既に、「歴史化されて」しまった出来事に属するようだ。このように「はじまり」ははっきりしない。移動したりするのである。これを考えてみると、実は「現代」という区分が自明でないことに気づく。「近代」などの時代区分とは性格を異にするものなのである。現代=contemporary=同時代、というのはそういうことだ。「現代」は「現在」との関わりによって見いだされる時空間なのである。
 近代的な生産様式や思考様式は、(それに抗する思潮が絶えず現れたにせよ)今なお我々を深々と規定しているではないか。漱石の近代論が、なお今日のこととして読まれうるではないか。そして何よりも、近代詩が、今なおわれわれの心に直接に響くではないか。今はまだ近代=modernなのである。ふつうの人生を送っているふだんのわれわれは、近代を生きているのだと思う。

 ある問題意識が、現在と地続きの問題を共有している時空間を眺め渡すとき、そこが「現代=contemporary」となる。
 山里で杣人として生きてきたYさん。彼が伝統的な道具を持って山に入るとき、村の祭りで渋い喉を聴かせるとき、彼はもしかしたら「近代」すら生きていないのかもしれない。その彼が、今日の木材流通と自然環境、地域社会の諸問題に直面し、その布置を理解しながら、これまでの山仕事をもう一度眺め渡すとき、彼は紛れもなく現代人である。
 今日の問題と、その時空間的広がりが意識されるとき、「現代」が生まれる。「近代」やそれ以外の時間を生きてきた人も、その時「現代」に生きることになる。ふつうの都市空間、都市生活においては、近代人としての時間の上に、「現代」が表層流のように絶えず乗っているという風に理解するのがよいのだろうと思う。
 この「現代」を特徴づけているのは、「今」に関わるアクチュアルな問題認識だったはずだ。これを持つ人の間だけに、「現代」は現れる。現代美術、現代音楽、そして現代詩、いわゆる「現代もの」は、そういう問題に自覚的な人の間で初めて成立するものである。
 ところがこのアクチュアリティの空洞化というものが、「現代もの」の避け難い病となっているわけだ。「今」を生きているふつうの人の生とまるでクロスしないものになってしまう。それは「難解」なものとなり、端からは一部のエリートの内輪の戯れ言のようにしか見えないものになっていく。
 繰り返し述べているように、「現代」というものは多分「近代」ほどには自明なものではない。それは、自分の立ち位置から世界を絶えず眺めやることでしか生まれてこない。ところが、そうした関心を持つもの同士が出会い、「そうそう!」とうなづきあったらどうなるか。そのコミュニティの中では、「現代」は実在感をもって振る舞い出すだろう。前近代における神さまのように。こうなると、「現代」をめぐる言葉は自動運動を始める。そのサイクルの中で、アクチュアリティというものは不問に付されてしまう。そして、その密室では「大衆は…」などといった言い方すら可能になってしまうのだ。「現代もの」が単なる難解に堕落するのは、この瞬間なのだと思う。

 役所言葉というのがある。言語明晰意味不明などと揶揄されるあの言葉はどのようなところから発されているのか。公共的なサービスは、万人に対して説明責任を負う。立場の異なる多様な人々に対して、その行動のひとつひとつを説明できなければならない。ある一つの道路建設工事。その擁壁の構造が十分に安全かつ経済的であるかどうか、市民一般に説明できなければならない。
 この「説明できなければならない」というのがミソである。客観的・普遍妥当的な説明根拠(構造計算など、多くの場合その読解には専門的な知識を必要とする)と、個別の具体性を捨象した一般論によってそれは織り上げられる。そうすることで、「一般に説明可能な」テキストが生まれる。これは、「一般に説明可能」ではあるが、一般の人々にとって理解可能なものからはかけ離れたものとなる。
 客観化の精度を上げれば上げるほど、一般化を進めれば進めるほど、説明可能性は高まり、理解可能性は低くなる。不思議なジレンマがここにはある。

 これと相似形の問題が、現代美術や現代詩にも潜在しているのだと思う。現代の作家は、作品というものはどろどろの世の中的文脈の中にあるものではなく、ひとつひとつが意志の現れとして屹立すべきものだと考えているのがふつうだろう。一定の主義主張などとは独立したところに作品の価値はある。個としての表現であれ、ワークショップ等を通じた共同的な場の表現であれ、そうした独立を勝ち得て初めて作品は普遍的なものとなる、そういう確信が、作家側にはあるであろう。
 突き詰めれば、音楽においてはリズムや調性は因習的な制度として退けられ、絵画においては何が描かれるかは問題ではなくなり平面性そのものが追求され、立体においては物質がむき出しになり、詩においては意味内容は相対化されて言語そのものがテーマになっていく。
 このとき、作品としての提示可能性(?)は作家によって引き上げられていく。同時に作品の文脈依存的性質は殺ぎ落とされていき、ある点を超えると一般にとっての理解可能性は小さくなっていく。この2つのベクトルは、必ずしもトレードオフの関係にあるわけではないのだと思う。どこか双方が出会うポイントがあるはずで、そのとき作品は最も意味深いものになるのだろう。その地点に立ち続ける勇気が、アクチュアリティを維持するものなのだと思う。

 「少なくとも今という時代の言葉であって欲しいと願う。」と萩原さんは言う。これは、現代詩一般にも、Jポップ一般にもないものだろう。ひとつひとつの個別のうたに耳を傾けるところからしか、始まらないのだろう。そして、そのとき「現代」性は、狭いコミュニティの中で定義される前衛性とはまったく無関係なところから立ち現れてくるのだと思う。
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by kotoba1e | 2005-09-07 17:36 | ことばと表現