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夏の終はりのスケツチ

 先週まではあの暑苦しい蝉の声が、建物と云ふ建物の間を埋め尽くしてゐたやうだつた。何処其処から聞こえて来ると云ふやうな感じでは無く、団地の何処にゐても同じやうな響きが充満してゐる。風がぴたりと止んでゐる時などは、空間そのものが唸つてゐるやうに思はれた。そのみーんみーんじーじーと云ふ音が、空気を震はせ熱を孕ませてゐるやうで疎ましく、それが耳に入つて来ただけで、首の後ろの辺りがじつとりと湿つて来るやうであつた。

 この数日はやけに蝉の死骸を見かけるやうになつた。一昨日、出がけに見た建物周りの道路の乾いた側溝にも、茶色い蝉と緑色の大きな蝉が一緒になつて死んでゐた。目を上げてみると、明るいアスファルトの上に何匹か動かない蝉の姿が見えた。台風は逸れて行つて仕舞つたが、その名残のおおまかな風の塊が、階段前の欅を揺らしてゐた。いい加減な大きさの雲が青空の低い所を流れていく。何とか幹に引っ掛かつてゐた蝉達も、この風に止めを刺されたのだらう。気が附くとあの唸りは消えてゐた。

 昨日は随分涼しかつた。朝、開け放つた部屋を吹き抜けた風は、この盆地の夏のそれではないやうに思はれた。昼になつてもそんな風が吹いてゐたので、どうやら本当に秋になつて仕舞つたらしい。仕事場に行く途中の煉瓦敷の坂道の日陰に、明るい斑点が並んでゐた。覆い被さるやうに伸びてゐる楓の枝の木漏れ日であることは直ぐに判つた。その一つ一つのはつきりした形を観て、日が少し遠くなったように思つた。

 今日は余り風が無い。台所から外を眺めると、三四間先に、百合の木が相変わらず壮健な姿をして並んでゐる。奥の方に見える葉が、陽を透かして明るく輝いてゐる。所々に黄色くなつた葉が見える。窓と並木の間の芝生にはひからびた大きな葉が、誰れかが並べたやうに均等に散つてゐる。少し枝が揺れるやうな風が吹いても、穢なくひからびた葉は動かない。どこか遠くから弱々しい蝉の声が一つ二つ聞こえてゐる。


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 何年か前、詩についてぼんやりと考え出した頃に書いた写生文。
 うまいものではないけれど、丁度今年の夏の終わりが、この年のそれに似ているような気がしたので、フリーページの散文集から引っ張り出してきました。

 この頃は俳句を作ったりして、知覚と叙述のゆるぎない関係をつくるにはどうしたらよいのか、というようなことばかり考えていた。漱石や百間(←ほんとは字が違います)のテキストのイメージ力に脅かされ憧れていた。
 写生文というと、自然主義的なものと結びつけられることも多いようだけれど、完璧な写生的技術で、とてつもない幻想を描いた30代の百間の短編は、現実的具体的対象物を離れても、というか離れてこそ、この言葉のゆるぎのなさが露出してくるということを教えてくれた。
 自由詩を書くようになっても、そのゆるぎなさ、正確さにたいする憧れは変わらない。ぼんやりとしたメタファー群を投げ出すのではなく、「そうとしか言い様のない」ものとしてのメタファーをつかまえること。内部のものを写生すること。そういうことがしたいと思った。
 『詩の話をしよう』(ミッドナイト・プレス刊)のなかで辻征夫さんは、山本かずこさんの問いに対してこんな風に言っている。

「詩で大事なことの一つは厳密さということなんだね。曖昧なのは詩ではない。詩って、昔はボワーンとしてて、雰囲気がよくてと、なんか誤解があったけど、それは全くの間違いで、はっきりと物事を認識して書くものじゃなければいけない。」
 これを読んで、やっぱりそうだったのかと思ったのを覚えている。どんなに多重のエレメント同士が響きあっていても、それらが正確に配され、ほかにはあり得ない明確な表現となっていること。そうした書き方を探さねばならないのだと思った。

 おそらくここには言葉の自律性のひとつの顕われがある。対象の凝視は、対象そのものではなく、その視線のありようの問題になっていく。そこにあるのは言葉なのだ。
 それは言葉の制度性を技術的に露出させるやり方(←現代詩によく見られるヤツです)よりも、活きた形で言葉そのもののあり方に迫ることができるのではないだろうか。標本化され分解された言葉(←これもそう。同じこと)は、もはや何も語らない。世界を見やる生きた視線の中にこそ、言葉の秘密が宿っているような気がする。僕がリルケやハイデガーに惹かれるのも、そうした関心故なのだろう。
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by kotoba1e | 2005-08-30 12:36 | ことばと表現