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六月の命

六月の命 「詩・絵本・小説で自由表現(6480)」
[ 詩とことばについて ]

 この間子どもが近所の田んぼでおたまじゃくしをつかまえてきた。プラスチックの小さな円筒形の水槽が、居間の床に置いてある。最初は大丈夫かなと思うくらい弱々しかったのが、数日でずいぶん大きくなった。蛍光灯の下で見ると、腹のあたりが銀色にぎらぎら光って、眼を圧するような強さがある。よく見ているとおたまじゃくしだけではなく、二枚貝のような姿をしたカイエビとか、小さなミジンコなど、眼を凝らせば凝らすほど、いろんな生き物が見えてくる。
 この一週間で虫も増えた。いつのまにか蚊が耳元に忍び寄ってくる。蚊取り線香が要る季節になった。大きな蠅の羽音もし始めた。
 湿度高く日の永い季節の命の明るさ。街の景色自体が、夕方になってもうすぼんやり光っているように見える。生命そのものの光なのか、ものの表面に一層に並んだ微細な水滴のせいなのか。忙しく草臥れ果てて、どんよりした身体を引きずって歩いている者にとっては、この明るさ、瑞々しさがしんどい。なんだか参ってしまう。こんな感じになって、初めてこの詩の気持ちが判った気がした。

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水中花           伊東静雄

水中花と言つて夏の夜店に子供達のために売る品がある。木のうすいうすい削片を細く圧搾してつくつたものだ。そのまゝでは何の変哲もないのだが、一度水中に投ずればそれは赤青紫、色うつくしいさまざまの姿にひらいて、哀れに華やいでコップの水のなかなどに凝とすづまつてゐる。都会そだちの人のなかには瓦斯灯に照らしだされたあの人工の花の印象をわすれずにゐるひともあるだらう。

今歳水無月のなどかくは美しき。
軒端を見れば息吹のごとく
萌えいでにける釣りしのぶ。
忍ぶべき昔はなくて
何をか吾の嘆きてあらむ。
六月の夜と昼のあはひに
万象のこれは自ら光る明るさの時刻。
遂ひ逢はざりし人の面影
一茎の葵の花の前に立て。
堪へがたければわれ空に投げうつ水中花。
金魚の影もそこに閃きつ。
すべてのものは吾にむかひて
死ねといふ、
わが水無月のなどかくはうつくしき。
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 今はこのほとんどすべてがそのまま判る気がする。こういう時刻がこの季節には確かにあって、そこではすべてが、外灯や車や行く人までもが、湿った精を吹きながらきらきらと生動しているのだ。それが見えてしまうと、つくりものの街のつくりものの私は、意味もなく責められているような心持ちになってしまう。対象のない焦燥が胸を圧する。投げ打ちたくなる。しかし何を? 僕自身が水中花でできているというのに。
 そういうつよさに無感覚だったときは楽だったのだ。このつよさをこっちにつける術も、たぶんあるはずなのだけれど。このつよさが見えるようになったということは、多少まともになってきたということなのか。何か命めいたものの感触を、詩に触れることで知ってきているのかも知れない。
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by kotoba1e | 2005-06-18 23:01 | ことばと表現

遠い終の棲家はどこにあるのか

 蕃さんの「詩人たちの島」でも取り上げられていた、「ミリオンダラー・ベイビー」を京都のMOVIXで見てきました。
 いろいろ読み解くのはやめて、目と口をあけて見ました。
 考える前に揺さぶられます。映画館を出てしばらくたっても、思い出したように涙が出てきて参りました。

 ラストのぼんやりした映像の向こうにはレモンパイがあったはずで、舌を残された者となったフランキーがここで味わうその味が、極度に清潔なこの映画に深い官能を与えていたような気がします。イエイツをゲール語で読むフランキー。tongueは自身のアイデンティティと他者の味の両者に関わるものなのかもしれません。

 遠い終の棲家はどこにあるのか。

 マギーも移民の出、フランキーも恐らくアイリッシュ系なのか。そしてフランキーは遠いInnisfreeを夢見る。生きている地点の、ある場所からの「遠さ」がこの映画の基調にあったような気がします。
 昨日は夜中の1時まで分水界の村にいました。月が明るく映る田のほとりで、僕自身が場所に関わろうとする意志、僕自身の根拠を、村の人たちはするどく突きつけてきました。故郷喪失者である僕にとって、イエイツのこの詩は、昨日の美しい村の夜景とどうしても重なってしまいました。この映画とこの詩が、折り重なるようにして僕自身の生の「遠さ」を問うてくるような気がしました。

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 蕃9073さんの「詩人たちの島」へのコメントを再編成したものです。
 イエイツの詩については、蕃さんの蕃さんの「Million Dollar Babyという尊厳」で紹介されていますので、そちらをご覧下さい。
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by kotoba1e | 2005-06-14 22:47 | もろもろ感想

公共空間と死

 今日はよく晴れた。昼間時間があいたので、一年坊主が学校から帰ってくるのを、交差点まで迎えに出た。青空を背景にして、子どもたちが歩道橋を渡ってくる。僕の姿をみとめた周ちゃんが手を振る。陽は高く、影は短い。暗さのかけらもない風景。
 だが、この歩道橋から落ちておそらく死んだ人がいることを、僕は知っている。しかし、不特定多数の人が行き交う公共空間では、そういう死は瞬く間になかった事になってしまうようだ。
 道で死ぬ人は多い。だが、それにより通行があきらめられる道はない。
 僕が乗っている電車が人を牽いてしまったことが何度かある。一つはほかでもない、阪神間を走る新快速電車だった。5年ほど前だったろうか。数の多寡はあれ、あの線路上にはこれまでも死はあった。だがそれは次の日にはなかったことになる種類の死だった。
 今度の尼崎の事故で現場となったマンションでは、補償を巡っていろいろと問題が起きているようだ。住民の人々はもうここには住んでいられないという。もっともだと思う。そしてここでの死の記憶は、この場所にまつわる記憶として引き継がれていくだろう。
 ここに、人が住まう場所と、道路や線路敷、河川敷といった公共空間の性格の違いが浮き彫りになる。公共空間とは、死を留めない空間なのだ。そこでは死は忘れられるべきものなのだ。
 公共で塗りつぶされた国があったとしたら、それはいたるところに死がありえ、しかもそれが不可視になっているような国であるに違いない。今の日本はどうだろうか。これからの日本はどうなるのだろうか。
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by kotoba1e | 2005-06-06 22:57 | まち・地域・場所