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田をつくるように詩をつくれ/詩をつくるように田をつくれ

 詩を作るより田を作れ、という言葉があるらしい。
 もっとちゃんと役に立つことをなさい、ということであろう。ことわざ辞典に出ているような言葉であるから、古い言葉である。いつだって詩人は穀潰しだったというわけだ。また、いつだって詩人はこういう言葉の下、ある屈託をもって生きてきたのだと思う。そして、一方でそうした田に象徴される実用、実利との距離において、自分の立ち位置を測量してきたところもあったろう。

 先日、映画「阿賀に生きる」を見た。もう何度目かである。佐藤真監督の出世作となったドキュメンタリー映画の名作であるが、これを繰り返し見る内にその印象が変わってきた。当初は水環境保全の市民団体にいた縁で見たので、そういう文脈から解釈していた。せいぜい流域における水文化の伝承、といった理解である。回を重ねていくに従って、この映画が人間の実存に関わるものだということに少しづつ気付いた。
 冒頭に出てくる長谷川芳夫さん夫妻の野良仕事のようす。ナレーターは共感を込めて、その野良仕事が長谷川さんの生きる意味そのもののように思えてきたと言った。ここにこの映画の主題が既に宣言されていたのだった。
 東京に出ている娘に止めろと言われてもきかない。南北朝以来の歴史を持つ小さい田は機械を持って入るのも難しいようなところで、おそらくそこで耕作を続けるということは、実用上の意味を殆ど持たない行為となっている。おそらく長谷川さんご自身の自己そのものと切り離せないものであるが故に、それは営々と続けられるのだ。この田の親しさ。おそらく長谷川さんの生と切り離せない、風土というものがここにある。

 「阿賀に生きる」だけではない。僕自身が桂川の上流に住まう古老の方にお話をうかがったときもそうだった。その村のひとつひとつのもの、ひとつひとつの場所とその人との親密さに打たれる。ものをしっかり見据えそれととことんつきあうなかで見いだされる自己というものを、この人たちは知っているのだと思った。

 その場にあるものひとつひとつを、その目で見、その手で感じ、握り、渡していく、そして、それらに意味を与えていく。ここにおいて、野良仕事はより詩に近いものとなる。詩の大切な働きは、事物と人を直面させ、そこに精神が開かれていく場となることだと思う。優れた詩や俳句はすべてそうした契機をはらんでいる。風土の内に生きるということは、もしかしたらもともとそうした詩的な性質を持っていたのではなかったか。

 中路正恒編「地域学への招待」(角川学芸出版)の終章で、中路はハイデガーによるヘルダーリン論をひきつつ、生きることの詩人的な本質について論じていたが、それはまさにこうした風土における諸経験の詩的な性質を踏まえてのものであったろう。

 ここで「詩を作るより田を作れ」は、全く別の意味を帯びてくる。「田も同様に、あるいはより一層、詩である」というような。

 風土の外部にある都市民は、ひとつひとつのものを、自分固有のものとして意味を与え、それと対話する中で己を見いだすということはあまりしない。交換可能なものとして、商品と概念をもてあそぶのみである。多くの詩がここから生まれているが、それが長谷川さんの田よりも詩的に尊いと、必ずしも言えるだろうか。僕は自信を持っては断言できないのである。

 それでもなお詩は、人に固有のものを出会わせ、その生を固有のものにしていく可能性を、もともと持っている。詩人がそのことを忘れない限り、詩はこの都市社会における「田」でありうるのだと思う。
 長谷川さんが生きた「田」のような詩を、僕も生きたいと強く希うものである。
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by kotoba1e | 2005-05-19 19:05 | ことばと表現