カテゴリ:もろもろ感想( 31 )

感覚のレッスン

梅原賢一郎「感覚のレッスン」読了。呆然としている。
[PR]
by kotoba1e | 2014-01-12 22:58 | もろもろ感想

新しい歩行

ナンバ歩きにせよ体幹ウォーキングにせよ骨盤ウォーキングにせよ、骨盤から前に出す、のは共通だな。多分良いことなんだろう。

骨盤をドライブすることで、膝を痛めずにぐいぐい歩けることがわかった。二気筒のレシプロからロータリーに換装したようだ。今度長距離歩いてみようと思う。
[PR]
by kotoba1e | 2014-01-12 01:08 | もろもろ感想

今倉裕恵「樹々の枝は空へ伸び陽光の彼方へ」ほか

 昨年末〆切の仕事いくつかに、まだ取りかかれずにいて、気持ち的には追いつめられつつも手はまるで動かせず、無為に過ごしている今日このごろです。みなさん如何にお過ごしでしょうか。
 去る12日(水)はついにやるべきことを一切失念してしまい、ふらふらと案内をいただいていた展覧会へ。

 堺町通御池下ルの小さなケーキ屋さんの壁面で行われている今倉裕恵さんの銅版画展「樹々の枝は空へ伸び陽光の彼方へ」に行ってきた。



 ぐるぐるかふぇでいただいた案内ハガキには、アカマツの樹を見上げたモノクロームの作品が印刷されていたけれど、実物大でみるその版画は、その印象とは大きく異なるものだった。まず、はがきより全然大きいし(あたりまえだけど)、その線の繊細な濃淡と空の白さがとても気持ちよかった。
 樹々の姿に確かさを感じた。僕も造園出身なので樹木を見るのは好きなのだが、樹を見つめるときの眼の気持ちよさが、その版画に刻印されているように思った。春の前の樹々の姿を描いたいくつかの作品がとくに印象に残った。
 1月28日(金)まで。

 その足で、出町柳のトランスポップギャラリーへ。「ウォーマーズ展」アメリカのインディペンデント系の若い作家たちの小品の展覧会のよう。微妙な味わいでした。

 それから、京都造形芸術大学の付置施設「ギャラリーRAKU」へ。長く親しまれたこのギャラリーも閉鎖されるということで、その最後の展覧会。松岡徹展「旅する島〜京都編」。これはとても面白かった。愉快な謎。いろいろ妄想というか考えに誘われる。幻想の島の旅、記憶、人々、それらの交渉・・・。ギャラリーRAKUの展示もいいけれど、その隣りの「芸術館」での展示がとくに面白かったので、これから行かれる方は見落とさぬよう。
 2月6日(日)まで。
[PR]
by kotoba1e | 2011-01-16 01:42 | もろもろ感想

プリウスのリコールについて

 すっかり有名になってしまったプリウスのブレーキだが、どうやら「効かない」のではなく、「効いている感じが足裏に返ってこない」という欠陥であるらしい。トヨタの数日前までの答弁によれば、これは「仕様」であり「欠陥」ではないということであった。これまでなされてきた個別の対応は、レスポンスが返ってくるようにプログラムをアップデートする、というもので、ブレーキそのものの機械的欠陥に対する修理というものではないようだ。おそらくリコール対象への対応も同様になるのだろう。
 ブレーキの「踏み応え」というのが、車からのダイレクトな応答ではなく、コンピュータによって作り出される、バーチャルな映像だったという点に、改めて驚かされた。操縦感覚は、すでに電子的に管理されているということか。
[PR]
by kotoba1e | 2010-02-10 18:35 | もろもろ感想

建設重機と衣料

びっくりした
  ↓  ↓
http://www.pornovisioni.com/bgqysak/

カオスだなあ・・・こういうサイトって、自動生成なんだろうか。
必要があってユンボのアームとバケットの形状をしらべていて発見。

ユンボは人気者ですね。YouTube にもたくさん。
http://www.youtube.com/watch?v=QEgsqZIDnkA&feature=featured
[PR]
by kotoba1e | 2010-01-16 17:44 | もろもろ感想

去年は本を読まなかったが・・・

 去年はどうした訳か全然本を読まなかった。町田康の『告白』を読んだくらいで、理屈っぽいものは全然頭にはいってこなかった。詩も読めなかった。
 今年は年始早々、軽いものが多いけれど本を手に取っている。今日は内田樹『街場の現代思想』(文春文庫)と河合隼雄『中年クライシス』(朝日文庫)を読了。永井均・小泉義之『なぜ人を殺してはいけないのか?』(河出文庫)を半分くらい読んでいる。
 内田先生はよくまあこんなことをこんなによみやすく面白く書くものだと思う。内田オリジナルの見解ではないのかもしれないが、
 人間と他の霊長類を分岐する決定的特性は何であるか、みなさんはご存知であろうか。人間だけがして、チンパンジーやゴリラが決してしないこととは何か?
「道具を使う?」
 ノー。他の霊長類にも簡単な道具を利用する能力はある。
「ことばを使う?」
 ノー。記号を使って意思疎通をする動物はいくらでもいる。
「社会を作る?」
 ノー。サルの社会は人間社会と酷似している。
 人間だけがして、他の霊長類がしないことは一つしかない。
 それは「墓を作る」ことである。(略)
「死んだ人間」がぼんやりと現前し、その声がかすかに聞こえ、その気配が漂い、生前に使用していた衣服や道具に魂魄がとどまっていると「感じる」ことのできるものだけが「葬礼」をする。(略)
 人間が墓を作ったのは、「墓を作って、遠ざけないと、死者が戻ってくる」ということを「知っていた」からである。(略)おそらくは、「戻ってこないように重しを載せる」というのが墓の本義なのだ。
 人間の人類学的定義とは「死者の声が聞こえる動物」ということなのである。そして、人間性にかかわるすべては、この本性から派生している。

というくだりには慄然とした。
 一読して、他者シュミレートに関するミラーニューロンの機能の話や、「心の理論」や自閉症、アスペルガーのこと、現象学における間主観性の問題と繋がって理解された。そうだったのか。
 おそらくこの本にはいろんな「そうだったのか」ポイントがあって、いろんなところでいろんな人が膝を打っているのに違いない。
 でもここが、レヴィナスを徹底的に読んだ人としての内田先生がすぱっと出たところなのではないか、という気もする。
 『なぜ人を殺してはいけないのか?』を読んでいると、永井先生はなんだかちゃんとしてるけど呑気な感じがする。まあ剣呑な話題でも落ち着いて考えるところが哲学なのかもしれないけど。そのあたりはよくわかりません。この「殺す」問題がどこかで独我論の乗り越えとつながっていそうなのはわかるけれど、その分析手順はなにか俯瞰的なテーブルマジックのようでもあって・・・。まあこの続きはまた素面の時に。
 小泉先生の方はやっぱり切迫感があって辛い気持ちにもなる。でも小泉さんの部は常に他者のあらわれとかかわりのようなものがひりひりと感じられるもので、読んでいて思わず引き込まれる。
 内田さんと小泉さん、「上機嫌」と「しんねりむっつり」ということで、世間的な印象は真逆という感じかもしれないけれど、実は案外似ている気がする。他者がどんな風にあらわれてきてしまうのか、ということへの視線の向きは似ている気がする(永井さんは全然違った)。たぶんレヴィナスの教えを共有している二人なのだと思う。
 という訳で、今年はレヴィナスを読んでみたいと思う。確か石川和広さんが読まれていたな。歩き酒をしながらきいてみよう。
 そういえば、石川さんから「tab」の最新号を送っていただいた。ありがたいことである。今年は詩的なもののあらわれへの感覚を復活させたいものだ。倍音から風景への回帰になるのかも。
[PR]
by kotoba1e | 2010-01-14 01:49 | もろもろ感想

町田康『告白』

 町田康『告白』(中公文庫)を読了。夢中になって読んだ。そしてびっくりした。
 その自由自在な語りに圧倒されつつ、時に痙攣的に爆笑させられながら、最後には重い感動を得た。
 思弁の人熊太郎云々ということについては、多くのところで書かれているので、ここでは書かない。
 往古の共同体的なもの、昔々の井伏鱒二の小説なんかにはあっても、このところの現代的で都市的なお文学からはすっかり時代遅れなものとして消去されてしまった「ムラ」の感受性と思惟のありよう、そしてそこにおける孤独というものが、いきなり同時代的なものとして飛び込んでくる。これはまったく得がたいものなのではないだろうか。町田の天才があって初めて可能になったもののように思う。
 すごいなあ・・・。
[PR]
by kotoba1e | 2009-10-09 01:16 | もろもろ感想

どの職場でも

 多分今の世の中、どの職場でも「一人一人が経営マインドを持て!」というようなことが言われているのに違いない。ひとりひとりが組織に寄生せず、創造的であれと、訓示されているに違いない。
 それはまあ、もっともなような気もするが、落とし穴もあるだろう。
 「経営者」の魂に憑衣された労働者は、ただ働いている仲間を、馬鹿にするようになるだろう。団結権など、唾棄すべきものと考えるようになるだろう。
 そしてなにより、自分自身のふがいなさを、「経営者」の視点から考えるようになるだろう。そして、本物の経営者から責めを受けたとき、たぶんもっともだ、と考えてしまうに違いない。

 ここから先は、まったく根拠のない空想なのだが、年間3万人超の自殺者の中には、生粋の労働者魂を抱えて生きている人は少ないのではないかと思う。労働者魂を持った「労働者」は、「経営者」と闘うことができる。しかし、「経営者」の心を内面化してしまった労働者は、「経営者」と闘うことはできない。そして、ひるがえって自分を責めるようになる。外に敵を作れなくなってしまった人たちが、死を選ぶようになっているように思えてならない。

 「ひとりひとりが経営マインドを持つ」などということが、本当になったら、経営者は本当は困るはずだ。この言葉が経営側にとって都合が良いのは、そういう気持ちになった労働者は、恐るるに足らない存在に堕ちるからなのだろう。

 NPO法ができて市民活動が盛り上がっていた頃、「自立した市民」というような言葉を自慢げに口にしている人たちをよく見た。これも、「経営マインドを持った労働者」と似たようなものなのだろうと思う。誰かにとって都合の良い言葉なのだろう。そして、この言葉の呪縛によって、自らを責める人もいるはずだ。「自立」をあるべき姿としたとたんに、見えなくなるものもあるのだと思う。それは、人々の活動にとって、致命的なことなのかもしれないような気もする。なんだか判らないけど。

 「経営する」とか「自立する」とかといったことと、創造的であるということは、必ずしも関係ないのだと思う。しかし、これらをあたかも自然な組み合わせであるかのようにして、「クリエイティブ」であることを強迫する連中もいる。ものをつくりだす楽しみ、思いもしなかったアイディアに出会う喜びというのは、生きることと直接つながっていると思うのだが、それが「出し抜く」ことと接続されるというのは、息苦しいことだ。

 本当に息苦しい世の中だ・・・
[PR]
by kotoba1e | 2009-07-11 22:36 | もろもろ感想

加藤周一「羊の歌」を読んで

 昨年下半期は、まったく本を読まなかったような気がする。忙しかったのもあるけれど、時間がまったくなかった訳でもない。何か本を読むこころができていなかったのだろうと思う。
 この正月には何冊か読むことができた。一番最近読んだのが、山猫先生とナカツカさんに勧められた、加藤周一「羊の歌」(岩波新書)である。加藤の幼年期から終戦までの記憶を綴ったエッセイである。
 開くと、古い岩波新書らしい、細目の典雅な字体にはっとさせられる。読み出すと加藤の育ちの良さにびっくりするというか少々辟易もするが、さらに読み進めていくと、それ以上に「眺める人」としての、幼時からの一貫した精神のありようが軸になっていることに気付かされる。一切の共同体とそれが強いる感情から切り離されたところにいた人であることがわかる。
 この孤独な「見る人」の佇まいには見覚えがあった。谷川俊太郎である。文体は全然違うが、寄る辺なさのただ中から視線そのものを提示する人、というところはそのままに重なり合う。この本の中の加藤は、気付いたら芝生にいたという宇宙人に、確かによく似ている。
 こういう一見して客観主義のように見える視線のありようを、モダンなものとして、誉め讃えることも、批判することもできるだろう。しかしとどのつまりは、二人とも田舎っぺではなく、都会っ子だったということなのかもしれない。生まれたときから農村的な共同体の外側にいたこと、風土環境との親しい交渉を持たなかったことが、大きく二人の資質に影響しているではないか。
 加藤が「近代的」な人であるのは間違いない。しかし、加藤はこの視線を時代に属するものだとは思っていないように見える。来るべき良き時代をもたらすものの見方であるとかといった正当化や、自負のようなものは、「羊の歌」には見受けられない。たまたまそういう資質であった、という感じなのである。そしてその佇まいは、しばしばさびし気なのであった。
 千葉の村の風景と親しくあったであろう恋人について語るときも、その親しさについて十分に意識的でありながら、それをくさすようなことは全くない。同時に恋人が郷里の風景ともっているような関係を、加藤は決して持ち得ないという自覚が強くにじみ出る。
 しかし、そんな加藤にも、風景がこの上なく美しく輝きながら現前することが、稀にあったようだ。そういった風景の描写は素晴らしい。8月15日の放送を聴いた後の風景の立ち現れ方は、際立って印象的だった。こうした風景の輝かしさ。これを捉え直していくことは、現代のわれわれにも課されている問いなのではないか。
 環境論は、急速に共同体的なものの支持にまわりつつある。僕自身、そういう立場を明確にとっている者である。しかし、かつてのムラがいいことばかりではなかったのは確かであるし、何よりもそうした共同体はすでに郷愁の対象でしかない。人口の90パーセント以上が都市計画区域に住むこの国では、だれもが「近代的」な「都会っ子」の側面を持つようになっているのだと思う。我々がいかに懐旧的なものを演じようとしても、風景はかつてのようには親しく振る舞ってはくれまい。
 60年以上前に加藤が見出そうとしていたものは、今の我々にとって「これから見出されるもの」なのかもしれないと思うのである。

貧しさとしてのR&R 貧しさとしての谷川
http://overtones.exblog.jp/8440210
[PR]
by kotoba1e | 2009-01-07 00:18 | もろもろ感想

さようなら0系

 3時間だけ寝て4時に起きた。妻と子どもを叩き起こし、半前には車を出した。真っ暗である。子どもたちはちょっとした非日常の雰囲気にわくわくしているようだ。20分くらいで着いた京都駅の駐車場のパーキングメーターはまだ動いていなかった。しかたがないので車はそのまま放置して切符を買う。
 5時4分の普通列車で京都を出た。6時12分新大阪発西往きの「こだま」に乗るには、この電車に乗らないといけないのだ。
 指定は数日前の段階で満席だったから、自由席もかなりの混雑だろうと思ったが、新大阪に着いてみるとそれほどではなかった。とはいうものの、ホームの熱気はただごとではない感じだ。
 しずしずと列車が入ってくると、ホームの男たちが一斉にシャッターを切った。みんな、「0系新幹線」の最後の姿を目撃しにきているのである。
 かつてはジェット機のように見えた先端部は、今の鋭角的な新幹線車両に比べればむしろ丸顔の印象で、まんまるいヘッドライトも愛嬌がある。子どもたちも「かわいい」と声を上げていた。
 今回は子どもにほだされてやってきたのだが、この列車の姿を目にすると、やはり懐かしさを抑えられない。僕と同じ昭和39年生まれで、その後23年間この形の車両だけで頑張ってきたのである。その後100系のグランドひかりやら、鉄仮面のような300系とか、やたら尖った500系、700系といった新種が矢継ぎ早に開発され、すっかり姿を見なくなっていたが、この世に残った車両は、山陽新幹線の「こだま」の仕事をこなしていたのだ。生まれてから子ども時代、青春時代を通じて、新幹線はこの丸顔だったのだから、僕にとっての新幹線というのは、イコール0系なのである。
 乗ってみると、そこかしこに昔風の意匠が見られるが、案外今のものと変わっていない印象も受ける。窓はこの古い新幹線の方が大きくて、景色は楽しく見られるように思った。室内の調度に使われている白も、パキッとしたものではなくアイボリーがかった優しいもの。昔はこういう白が多かったような気がする。家電製品などもそういう顔付きだったように思った。
 乗っていると十分速くて快適である。まさに1分1秒を争う中で、新しい車両が開発され、旧式のものは淘汰されて行くのだが、そんなに急がなくてもいいのになあ、と思わされる。まあこの0系だって、そういうスピード開発主義の塊のようなものなのだから、その手の感傷は本来似合わないものなのだと思うが、このユルい「なごみ系」の顔立ちからは、いやでもそういうメッセージを受け取ってしまうのだった。
 
 あっと言う間に新倉敷に着いて、あとは倉敷の美観地区と大原美術館に行ってとんぼ帰りをしてきた。冷たい雨が降っていて、ひどく寒かった。それでも観光シーズンだけあって、すごい人だった(京都も凄かったのだろう)。大原美術館では良い絵を見た。これについてはまたエントリーを改めようと思う。

 14時には京都に戻っているのだからたいした強行軍である。車は駐禁を取られていた。子どもは塾へ行った・・・。きびしいなあ。

 京都では雨に降り込められながら、食卓のテーブルで原稿依頼のメールを書いたり助成金の申請書を書いたりした。週末にやっておくべき作業をまだまだいろいろ残したままウィークディに突入である。

 昨日今日はとりあえず家庭人。酒もこの2日飲んでいない。蕁麻疹も少しましなような気がする。
[PR]
by kotoba1e | 2008-11-24 23:34 | もろもろ感想