池水慶一さんの講演を聴いた

 今日は勤務先の京都造形芸術大学で、旧知のアーティスト池水慶一さんの講演があったので行ってきた。先日、これまでの活動をまとめた「IKEMIZU! 1964-2004」という大部の資料集を送って下さった。1964は僕の生まれた年(年齢ばれるなあ)なので、ちょうど僕のこれまでの生と重なっている。
 この人は40年以上のあいだ、大規模な「悪戯」とでもいうべき作品を手がけてきた。とらえどころもなく大きかったり、それでいてどこか可笑しかったりする、そんな作品だ。その活動が、メディアで大々的に取り上げられたり、そうしたことを通じて一般の市民が大量に押し掛けるというようなこともなかった。ただ、それらのアートは居合わせた人、関わった人(僕もそうだった)には確実にかけがえのない経験となり、伝説となっていった。
 企業スポンサーもつけず、中学校の美術教員を30年以上にわたって続けながら(その後大学に籍を得た)、仲間たちと共に自分自身で調達できるものだけを使って、次々に新しい表現に挑んでいったその生き方には、考えさせられる。

 今の若いアーティストは、売れなくてはいけない、と思っている。それが正しいのだと。そうでなくても、パブリックに対して開かれた表現でなくてはならない、と思い込んでいる。そして、それをきちんと説明できなくてはいけないのだと。現実社会に生きるアーティストとして。
 これはあるところまでたぶん正しいのだけれど、そう思い込んでいくうちに、確実にスポイルされるものはある。

 現代詩フォーラムなどを覗くと、「なぜ詩は売れないか」とか「詩がメジャーになるためには」とか、そんな議論があるようだ。どうもそこに集っている詩を書く人たちは、表現する人はその表現で食えて当然だという意識があるのだろう。多分彼らの念頭には、「(売れる)小説家」「漫画家」「(ポピュラー音楽の)ミュージシャン」といった存在があるのだろう。注文がきて、それで仕事ができる。本も出版社がお金を出して出版してくれる。忙しいながらも多くの仕事をこなし、充実した日々。そして多額の収入。そういうアーティスト像があるのだと思う。
 しかし、他の分野を見れば、そんなのはごく限られた範囲の出来事に過ぎないことはすぐに判る。収入のための定職を持ちながら、諦めずに自分の表現をこつこつと行っている人たちだどれだけいることか。現代美術の作家だって、大半がそうだ。学校の先生をしたり、肉体労働をしたりしながら、自分の金を使って自身の表現を続けている人たちがいるのだ。「諦めずに」というのは、ビッグになるのを諦めない、ということではなく、表現を諦めない、ということだ。池水さんはまさにそうやってきた人の一人なのだ。思いついたらやっていた。やりたいことをやってきた。四十年の凄まじい自由。
 「勝ち組」思想に固まっている人は、こういうのを馬鹿にするのだろう。文章や詩を書く人の中にも、そういう人は増えているのかもしれない。しかし、当人にやむにやまれぬ、生と直結したものとして表現があるのであれば、こうしていくしかないではないか。そして現に多くの詩人はそうしているのだと思う。それを見て「みじめだ」とか「びんぼうくさい」とか「売れなきゃ意味ない」とか言うのは、違うだろう。だったらやめなさい。

 「言鳴」の後の飲み会でも話題になったのだけれど、どの投稿サイトも、大量の所謂「ぽえむ?」(あえて「ポエム」「poem」とはいわない)で埋め尽くされるようになってきたという。それは、一旦自分で受け止め、考えることを通しての表現ではなく、「あるある」といった性急な「うなづき合い」のための言葉なのだ。自身を経由せずに浅く繋がっていこうとする言葉は、一般論の姿をとる。そしてそういう浅薄な一般論を大量に売ろうとする奴が、「マーケティングで詩を書くべきだ」なんてことを言い出すのだろう。そういう人は、一体どういうところに立っているのか。今は、もうそんなことも判らなくなってきているのだ。
 政治についても、いきなり大所高所から語ってしまう。貧乏人のくせに(失礼!)「努力したものが報われる競争性のある世の中が正しい!」なんて言ったりする。自分がどこにいるか、もう判らない。自己は一般性の中に溶けてなくなってしまっているのだ。こういう溶けた人たちの上に、小泉政権は浮かんでいるのだろう。横道にそれたか。今日はそれっぱなしだ。
 まあいいや。こういうどこか遠くからの一般論の視点、誰に取っても他人事であるようなものに乗っ取られてしまった自己というものが、都市のいたるところに顔を出している。彼らは、彼らの定型からはみ出す表現は、奇形的なもの、反社会的なものだと考える。「意味の判らない詩なんて」などと言う。「売れないものは意味がない」「客の入らない展覧会は税金のムダ」と言う。そして安全・安心な表現をメディアの中に求めていく。若い書き手がそっちに流れていくんだとしたら、ちょっと待てよ、と言いたいのだ。

 地道に表現を続ける、言うのは簡単だが、池水さんくらいの規模の表現になるとそれは容易ではない。でもそうしてきた人の姿と言葉に触れると、「勝ち組」に仮託することで何とか自分を保とうする卑しさ(自分の中にだってある)と戦いたい気持ちになる。
 池水さんのアートは、どちらかといえばぶっきらぼうな、即物的なものだ。人生についてそれらしく語ったり、癒しっぽかったりするようなものとは全く無縁だし、当人の話もそういう生き方論のようなものでは全然ないのだが、それでもこれだけ一貫していると、いやでも表現と生きることについて考えさせられるのだった。


写真は池水慶一さんのHPより引用しました
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by kotoba1e | 2006-01-19 00:21 | ことばと表現
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