『がっこう』をめぐって

 蕃さんのブログ「詩人たちの島」で、谷川俊太郎の詩『がっこう』が紹介されていた。2003年11月23日の朝日新聞に掲載されたということなので、ほぼちょうど2年前(2005年11月現在)のことになる。一読、戦慄した。重複するが、ここでも全文引用しておきたい。

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がっこう
             谷川 俊太郎

がっこうがもえている
きょうしつのまどから
どすぐろいけむりがふきだしている
つくえがもえている
こくばんがもえている
ぼくのかいたえがもえている
おんがくしつでぴあのがばくはつした
たいくかんのゆかがはねあがった
こうていのてつぼうがくにゃりとまがった
せんせいはだれもいない
せいとはみんなゆめをみている
おれんじいろのほのおのしたが
うれしそうにがっこうじゅうをなめまわす
がっこうはおおごえでさけびながら
がっこうがもえている
からだをよじりゆっくりたおれていく
ひのこがそらにまいあがる
くやしいか がっこうよ くやしいか


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 凄い。なんと言っていいものか。これから思いついた事を何点か書くが、それはこの印象の、やはり断片でしかないだろう。これを言い尽くすのは難しい。
 「つくえ」「こくばん」まではまだいいが、「ぼくのかいたえ」まで燃えるに至って、なんだか取り返しのつかない感じがにわかにせりあがってくる。
 そこで急に「おんがくしつでぴあのがばくはつした」。この過去形。これまで現在形で書かれていたところに過去形が突然現れる。そのことによって逆に急に場面が現前する。「いま、ここ」に胸ぐらを掴んで放り込まれる。なんという逆説的な過去形だろうか。
 「たいくかん」これはこども言葉だ。「シャーペン(<シャープペン<シャープペンシル)」のような。もともとひらがなでかかれた、こども詩のような体裁を見せているが、その偽装がさらに周到になされているところ。そのあざとささえ、武器になっているようだ。「ばくはつした」「はねあがった」。このあたりから炎の中での物体の動きが現れる、その悶えが見えるようだ。
 「せんせいはだれもいない/せいとはみんなゆめをみている」多分重要な詩行。だが僕にはまだ謎のままだ。彼らが何処にいるのかは示されない。「せいと」は、あの燃える学校のなかで夢を見ているのか。それとも、この詩の「ぼく」の傍らにいるのか。それともこの炎こそが夢なのか。
 「おれんじいろのほのおのしたが...」このあたりから視点がぐっと広角になって、燃えあがる建物全体が見えてくる。このこどもじみた語り口と苦悶する怪獣めいた生き物の比喩によって、「えほんのなかのかいじゅうせんそう」のような、ふしぎな間(ま)が支配する空間が現れる。がっこうは「からだをよじりゆっくりたおれていく」
 「くやしいか がっこうよ くやしいか」。この陰険さはどうだろう。無垢なこども(を装った話者)が最後に口にする呪いの言葉だ。「くやしいか」という言葉が、何かとは明示されない、なんらかの過去を、照らし出す事なく、指し示す。裏切りか、復讐か。このこどもが火をつけたのかどうかはわからないが、彼はそれを知っている。そして、ことの帰趨を理解している。
 こどものなかに、暗い方へ向かう筋道だった理解が形成されているのを見いだすとき、大人たちはそれを、こどもに似つかわしくないものと決めつけ、恐れる。「心の闇」などという、どうしようもない名称まで用意して。だがこれは、こどもが知覚し作り上げている世界と、きっとわかちがたく結びついたものなのだ。おそらくこどもが抱えている冥さは、おとなのそれより澄んでいる。その中を通過するものは、減衰しない。それが可能にする破壊というものについて、静かに考えてみたくなった。

 それにしても、こんなかんたんなことばで、なんということをいうのか。ことばによって、こういうことが可能だということは、やはり喜びではある。谷川俊太郎の詩人としての凄み、他にない、屹立したありようを思う。
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by kotoba1e | 2005-11-22 10:13 | ことばと表現
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