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最近と詩

 前のエントリに、タクランケさんと倉田良成さんがコメントを下さった。タクランケさんとは、随分前に蕃さん(水島英己さん)のブログで出会った。倉田さん編集の「tab」でご一緒させていただいたこともあった。倉田良成さんとも、水島さんのブログで出会ったのだと思う。倉田さんの散文詩集「東京ボエーム抄」を読んだ時の衝撃はいまも忘れることはできない。木々の戦ぎの向こう側にすでに異界が訪れているような感覚が、倉田さんの詩にはいつもあって、それは今も僕を戦かせているものと同じような気がする。いまも続いている共同詩誌「tab」の創刊メンバーに加えていただいたのは、とても有り難いことだった。一緒に関わった石川和広さんとは、今もときどきやりとりをしている。

 詩から遠ざかってしまったのはなぜだったのだろう。いっときはそれこそが最も大事なことであるように思われていたのだったが。理由はいくつでも探せそうな気がする。
 だんだん誉めてもらいたいような気持ちが出てきてしまったというのもあるだろう。これは馬鹿馬鹿しいことですね。でもとにかく率直に作っていたときの気持ちとは別のものが出てきてしまったというのはあったような気がする。うまさ、のようなものの方に気持ちが向いたりとか、詩を書いている人同士のつきあいのような方向に少し気がそれたようなところもあったように思う。まあ詩を書くこととは関係ない話であり、書けない話ともまた関係ないだろう、こういうのは。
 もう一つは自分の詩を眺めていて、なんだか嫌になったところもあったのだと思う。詩のなかに自分以外の人がいないことに気付いたことがあったのだった。どの詩作品においても自分と、身の回りのモノ、が描かれているのだと思った。人がいないのである。(「tab」の野村龍さんなんか、もっとそうだが、それは一貫した確信が感じられるのだった)。モノから立ち上る霊性のようなものに興味があったのは確かなのだが、詩をスタックしていく内に、そういうものしか見えていないところに気付いて、行き詰まってしまったのだろう。谷川さんなんかは、コカコーラの缶について微視的な観察を行っても、そこにエロスを感じさせる舐め回しの視線が前面に出てきて、なんだかすごいことになってしまう。そういうエロスが、たぶんないんだろうな、と思っていたところもあったような気がする。
 最近になって、少しだけれど二人称的に人のことを考えることが増えてきた。もしかしたらかつてと全然違うものが出てきそうな気もする。書いてみないと判らないが。以前のものを一端外に出して(まとめて)、次の作業に取りかかりたくなってきている。

 今日は学生に乞われて、「偽校歌」をつくった。大昔からあるといわれても違和感のないような、古くさくて無駄に格調高げなものをつくろうと思った。昼休みにiPhoneで書き、数時間後には彼女からメロディが返ってきた。冗談のような作業だが、建学の理念を自分的に確認するのには少し役立ったような気がした。
 CDにまとまるのが楽しみである。
by kotoba1e | 2010-02-24 01:17 | ことばと表現
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