「OCA!大阪コミュニティアート アートの力を信じる」における小沢健二と谷川俊太郎

「OCA!大阪コミュニティアート アートの力を信じる」というイベントが、さる1月23日に開催されたという。Skype経由で小沢健二が講演し、谷川俊太郎があいりん地区を歩いて詩を作って朗読した、ということだ。
これについて、「松本竜也の日記」が素晴らしいレポートを提示していた。僕も現場に行っていないのだが、このレポートには考えさせられるところ大だった。今日の昼間は閲覧できたのに、今はプライベートモードになってしまって見られなくなってしまっているのが残念。
 詳細はそちらを見ていただきたかったのだが、小沢健二の指摘の鋭さにはびっくりした。松本さんによれば、彼が論じたのは、「なぜイギリスの行政は貧しい地区でのアート振興にお金を出すのか、彼らは何を狙ってアートを援助したのか」というテーマ。そして、「労働者の街」へのコミュニティ・アートの導入というのが、実は彼らの社会的馴致を目論むネオリベラリズムの戦略である、というのがその主張であったようだ。松本さんのレポートで紹介されていた、イギリス行政におけるコミュニティ・アートの「機能」や、「セルフ・エスティーム」を巡る議論は、丁寧に考えてみたいと思った。
 それに比べて、当日は好評だったという谷川俊太郎の詩はくだらないものだとおもった。当たり前だが、谷川さんはすごい詩人だし、僕も好んで読んでいる。若いころから書き続けられた、見る者認識するものの孤独を浮き彫りにする詩群は、恐ろしいものだと思う。でも、「すこやかにおだやかにしなやかに」(佼成出版社、2006)以降、安易な癒し系に堕してしまったのではないか。今回あいりん地区を歩いて作ったという、この詩はどうだろう。

アサヒ・コムより

「路上」(部分抜粋)

 ここに座って
 なんにもしないでいると
 咲いてる花のココロになる
 ただ咲いてるだけと
 ただ座ってるだけ
 似たもの同士
 それがいのち
 もしかするともうおれ
 人間じゃないかも
 でもいのち
 月を見て
 雲に抱かれて
 いつか死ぬまで
 この世にいる
 あの世はどんなとこかなー
 それ お楽しみに
 とっておく


 こんな、ひなたぼっこをしている良寛さんみたいな詩が、釜ヶ崎の労働者たちの詩になりうるだろうか。
ぼくは嫌な「鈍さ」を感じてしまった。こういう何かを隠蔽してしまうような微温的な感動こそ、嫌悪すべきものなのではないだろうか。
 それに比べると、オザケンはやっぱりロックだと思った。

 松本さんが書いていたように、小沢健二が言っているのは相当過激なことであり、彼がある種の「革命」を夢見ているのであろうことがよくわかる。
 議論の詳細は、又聞きになるしここでは紹介しないけれど、共同体的なもの、前近代的なものにシンパシーを持っている僕の立場とは180度違うものだ。違うものだが、システムによる平準化に抗する、という点では少し似ているのだろう。小沢氏もソウル好きみたいだしね。

 機会があればまた詳説を試みたい。

 なんであれ、これを企画した「ココルーム」は、表現と街の現実について問題提起をしつづける、一つの核であることはまちがいない。
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by kotoba1e | 2010-01-28 00:23 | まち・地域・場所
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