「死ねばいいのに」

 昨日ネットのニュースで、ある殺人事件の裁判についてのものを見かけた。子どもを殺された親御さんが、死刑を望む発言をしたという記事であった。
 最愛の、なんの落ち度もない子どもが、理不尽な殺され方をしたとしたら、親としてはそう思うのは当然のことかもしれない。僕が親でもそう言ったかもしれない。裁判の場でそう言うのももちろんあり得るだろう。
 しかし、この裁判において公共に報じられるべきことは、それのみだったのだろうか。もちろんメディア全体を眺めれば、異なる視点からのいろいろなコメントがあったのだろう。しかし、誰もが目にする、著名ポータルサイトのトップニュースには、そのニュースについては、親御さんの呪詛に注目する視点のものしかなかった。他は芸能人がどうしたとか、そういうものである。
 何が言いたいのかというと、こういう他者の死を願う言葉が、恣意的な形で選択され、公共の場に扇情的な形で掲出されることに強い違和感を感じるのである。この報道の背景に「異常者は死ねばいいのに」という、「本当にいるのかどうか判らない多数者の声」を感じるのだ。そして「異常」であることへの、過剰な恐怖のようなものも感じるのだ。
 10年くらい前までは、犯罪者や異常者に対するシンパシーというものが、もう少し世の中にあったような気がする。自分だって少し間違えば、そういうことをしていたかもしれないし・・・、というような想像力が、もう少し一般的にあったように思うのだ。それは、ある寛容さにも結びついていたし、安全弁として作用していたところもあったように思う。
 今は、犯罪者について共感的なコメントをすることもためらわれる雰囲気がある。「気持ちはわかる」と言ったとたんに、「犯罪者予備軍」に数え込まれてしまう感じがある。そちら側に数え込まれないためには、いつもそうした連中に対して非難を与え続ける必要がある。そうしている限りは、あっち陣営だとは思われないだろうから。
 たぶんそんな感じなんだろう。「まとも」であることを表現し続けるためには、「まともでない」人を指弾し続ける必要があるのだ。今の日本社会が帯びつつある「不寛容」の空気は、そういう自分自身が異常者だと思われたくないという恐怖に裏打ちされているような気がする。そしてその恐怖は、もしかしたら自分はそっち側なのかも、という恐怖と繋がっているようにも思う。年間3万人、交通事故死者数(これだって下手な戦争よりは多いくらいなのに)の4倍に及ぶ自殺者数は、もう一つの瀬戸際の近さを語る傍証だろう。「異常」の淵に飲み込まれないように、正気であることを言明するために、「異常」について距離があると言おうとする。そしてそれを客観的に語れるかのような物言いをする、という声が、今の世の中に木霊しているのではないか。しかしその声を聴くのはつらいことだ。その声自体が断末魔めいているからだ。
 異常者を指弾する声を共感的に聴くのはある種の安心をもたらす。それは自分を多数派の正常な人間の側にいることを確認させてくれるから。メディアはそういう心地よいニュースを流す。しかし、メディアの中でそうした声が響き合わされる時、その指弾事態が狂気を帯びていく。その狂気に異和を表明するのは、少々勇気を要するのかもしれないが、それこそ今行わなければならないことなのだと思う。
 戦後という時代が育ててきた、数少ない宝の一つに、「過つ側への」共感的理解というものがあったはずなのだ。もう一度それを思いだすべきだと思う。
 被害者が軽く扱われてき過ぎたというのもよくわかる。しかしながら、応報感情ばかりが公共圏での意思判断を支配するようになってしまっては、いまのところ辛うじてあるかのように見える「市民社会」は、跡形もなく消え去ってしまうだろう。
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by kotoba1e | 2008-12-18 22:56 | ことばと表現
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